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2017-08

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《第8次元 信仰領域》について - 2013.02.19 Tue

《第8次元 信仰領域》について、しばらく書いていきます。
前に予告した具体的な克服の問題を含めて、毎日少しずつ書ければと思います。
今日は手始めで少しです。

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彦坂尚嘉の中国西安旅行5/アメリカ大統領の様態分析 - 2012.12.23 Sun

2012年12月21日

中国の西安で、栃原比比奈さんが風邪でダウンして一日空いていたので、
アメリカ大統領の様態分析をしました。

多くの人には興味が無いでしょうが、私には面白い結果になりました。
レーガンが固体であったのは、良くわかりますが、それだけの理由ではないにしろ、だからこそアメリカ人の大多数が愛した大統領だったのです。多くの人に愛されるのが人生の目的なのか? というのも、難しい問いでありますが・・・。

参考までに言いますと、会田誠は《想像界》だけの軽人格ですが、固体人格で、レーガンのように古いのです。この古さが多くの人に愛されるのでしょう。


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■怠惰について■ - 2012.10.28 Sun

■怠惰について■

彦坂尚嘉の鏡像理論ですと、怠惰というのは、その人が2枚の合わせ鏡の内部に完全に入ってしまったときに生じます。

ジャックラカンは、人間が鏡を通して自己認識をしていることを指摘しています。赤ん坊は自分の身体を統一体と捉えられないのですが、9ヶ月不安前後(生後6ヶ月から18ヶ月)に、鏡を見て、母親と自分が鏡に写っているのを見て、母親の実像と母親の鏡像の関係を認識して、それへの類推から自分の鏡像を自分として認識するようになるという理論。鏡を見ることによって鏡にうつった像が自分であり、統一体であることに気づくという理論で、こうしての自己のアイデンティティを確立するというような内容を言います。この鏡とはまぎれもなく他者のことでもあるというのです。つまり人は他者を鏡にすることにより、他者の中に自己像を見出す。人間というものそのものはそれ自体まずは空虚なものであって、自我というものはその空虚の上に覆い被さり、その空虚さや無根拠性を覆い隠す想像的なものであるというのです。自らの無根拠性や無能力に目をつぶっていられるこの想像的段階に安住することは、人間にとって快いことではあるといいます。

2枚の鏡と言うことは、私が読んでいる範囲ではラカンは言っていないのですが、合わせ鏡の比喩で、人類史を語っているのはH・G・ウエルズの『世界史概観』です。
つまり私たちは、実は鏡像の中を生きているのではないか?

さて本題の怠惰の問題に入りますと、この自分の鏡像空間の中にいると、怠惰という問題が発生します。

しかし、人間は、鏡に映さなくても、手足や、自分の肉体のかなりの部分は見ることができますし、触ることができます。つまりラカンの言う鏡像の外部があるのです。というわけで、結論を言うと、自分の鏡像世界を、金槌で割ると言うイメージを、何度も繰り返し行うと、この鏡像の中に住む自分自身を壊すことができて、怠惰の外部に出られます。お試しください。


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肥田春充 - 2012.10.14 Sun

高木 様

> 肥田春充という人の健康法を挑戦するか追及するか考えているのですが、超次元はあるようですがタルコット・パーソンズに肌のぼやーっとしたのが似ているような印象を受けたので見てほしいです。
> http://homepage1.nifty.com/hidashiki/
> 子供時代から変わったか等、お願いします。忙しそうな中すいません。

お返事遅れてすみません。
ブログでお答えします。


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詩人の心と不安定さ/超重層性と単層性について - 2012.08.24 Fri





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鏡像理論の拡張を目指して(2) - 2012.08.23 Thu

人間の心が2枚の合わせ鏡になってできている。
この事はH.G. ウェルズ著「世界史概説」の上巻の冒頭にも同じ比喩が書かれています(上巻  第一章1頁10行目から)。

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『24』とキーファー・サザーランド - 2012.06.11 Mon




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《現実界》だけの人格の出現をめぐって - 2012.06.04 Mon

《現実界》だけの人格の出現をめぐって

シ#12441;ョーシ#12441;ワシントン
初代アメリカ大統領は《現実界》だけの人格

 

書き込んでいくと、この程度のブログの文章でも手間がかかります。それと多くの人には、読めない文章になります。読めないというのは、コミュニケーションができないということです。

多くの人とコミュニケーションすること事態が、なかなか難しいのですが、それにはいろいろの理由があるにしても、実は人間精神が一つではなくて、いくつもあるからではないのか?

人間関係や、芸術の理解のむずかしさの中から出てきた疑問は、こうした人間の多様性の問題でした。つまりジャック・ラカンが言うように、人間精神には《想像界》《象徴界》《現実界》という3界があるということが規準ではないのではないか? という疑問です。

それは美術作品そのものの多様性の理由の把握の問題として、まずありました。それは象徴的にはデュシャンの出現で、《現実界》だけの作品が現れたことです。このことが多くの人に混乱を生んで、さらに多数の事象を生じるようにまりました。


この《現実界》だけしかいという現象はしかし美術界だけでは無くて、実は世界の軍事情勢や政治情勢自体が《現実界》だけになったことを意味していたのです。

 1914年の第一次世界大戦は、多くの予想は戦争が早期に終結するというものでありました。しかし、機関銃などの新しい武器の出現が、戦争の様相を変えたのです。機関銃の弾幕を避けるために塹壕戦が展開し、そのため戦線は膠着して戦争は長期化していきました。大戦参加国は総動員する国家総力戦となり、これまでの常識をはるかに超える被害がもたらされたのです。この現代戦争の惨劇が、《現実界》だけという美術作品や、《現実界》だけの人格を出現させたのです。

 それでは、それ以前にそうのような事象はなかったのでしょうか。
 あったのです。

 政治の世界というのは、たとえばアメリカ大統領の顔を見ても、初代大統領のジョージ・ワシントンは、《現実界》だけの人物でした。つまりアメリカ合衆国というのは、1776年に独立を宣言して作られた国ですが、この段階で、《現実界》だけの人間というのは、出現していたのです。言い換えると18世紀という産業革命が始まり、近代になった時点で、すでに《現実界》だけという分離の現象が、人間の精神に起きていたのです。

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ジョージ・ワシントン


 2代目大統領のジョン・アダムスも、《現実界》だけの人物です。

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3代目のトーマス・ジェファーソンも、《現実界》だけの人物です。

Thomas Jefferson


つまりアメリカ合衆国を建国するという、そういう創成期の指導者は《現実界》だけの人格であったのです。

 4代目アメリカ合衆国大統領ジェームズ・マディスン、5代目ジェームズ・モンローになると《象徴界》だけに人物になります。つまり《現実界》から《象徴界》に建国のレベルが移行したのです。

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さらに6代目のジョン・クィンシー・アダムズ、7代目のアンドリュー・ジャクソンになると《想像界》だけの人物になります。

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 この事は何を意味していたのか?

 アメリカ大陸に移民して建国をしていくというような、未成熟な社会の状態の中では、実は、バラバラになった状態が出現していた。そしてあ《現実界》が先行して、建国が進んで、最終段階で《想像界》が出現してくる。

 この事を踏まえて、20世紀の歴史を見直してみることにしましょう。

 まず、第一次世界大戦になると、現代戦の悲惨な殺戮戦が登場することで、人間の文明自体が、ラカンの言うところの狂気の状態をしめしたことを意味します。つまり《想像界》《象徴界》《現実界》がバラバラになり始めたのです。つまり20世紀の文明というのは、狂気化した文明状態を示してきていて、18世紀19世紀のヨーロッパの啓蒙的な理性の時代の勝利という《象徴界》の強い時代が崩壊してきた現象が出現します。つまりアメリカ合衆国の建設の最初の混沌状態に回帰するような状況に戻るのです。

 1914年に第一次世界大戦が始まり、16年になると、戦争に参戦した両陣営が国家総動員体制を敷いた総力戦になりますが、これこそが20世紀始まりでありました。この時から、実は人類は狂気の状態の文明を生きることになったのです。狂気の時代というと、大げさに思いますが、第2次世界大戦でのユダヤ人虐殺や、それ以後にも頻発していったジェノサイドを思えば、狂気の時代であったと認識することは出来るでしょう。スターリンによる大粛正というのも狂気ですが、このスターリンもまた《現実界》だけの人格であったのです。

 実際、冷戦が示したものも、美術で言えば、グリンバーグの言ったところのアヴァンギャルドとキッチュの分裂となるのですが、これも《想像界》だけの美術と、《現実界》だけの美術の分裂であったと言えます。つまりポロックのドリッピングの絵画というのは、《現実界》だけの絵画であったのであって、それは一つの狂気の提示であったし、そのように人々はとらえて評価したのでした。

 (つまり後期の黒い線で描いた「ブラック・ポーリング」というのは、《現実界》だけに分離した作品を乗り越えて、《想像界》《象徴界》《現実界》の3界を統合しなおした作品であったのですが、人々は、この3界統合を古いものとして、芸術作品としては退化したものとして受け取ったのです。)

 人類の歴史の中で、20世紀というのは、こうして《想像界》《象徴界》《現実界》をバラバラな状態へと解体して狂気を示すことを肯定していく時代でした。このことを示すモデルとしては草間弥生の過剰な評価が示しています。美術作品としてはレベルの低いものが、過剰な賞賛を浴びるのは、狂気と芸術の取り違えの時代性を示しています。

 つまり時代は、人間の精神界をバラバラにしていくものとして展開していったのです。その中心を占めるのが《現実界》だけの芸術であり、そして《現実界》だけの人間です。

 象徴界だけの作品としては、ジャッドのミニマルアートが印象的なものです。

 1975年を超えるとしかし、《象徴界》は急速に弱まって、象徴快適なるものは嫌悪されるようになっていきます。それは文明の外皮の制度的な部分は依然として強度のある《象徴界》なのですが、文明の内部は逆に、《象徴界》を失った《現実界》と、そして《想像界》だけに分離した集団のリアリティになってしまったからであると言えます。

 つまり文明それ自身の構造が、上部構造と下部構造では分裂していったのです。下部構造には《現実界》だけのものや、《想像界》だけの人物があふれていったのです。

 《想像界》だけになるという現象は、ロックの歴史では、ボストンの出現と成って顕在化します。いわゆる産業ロックというものの出現ですが、これは当初《第1次元 社会的理性領域》だけの《想像界》の音楽でした。それがU2やオアシスになると、《第6次元 自然領域》の《想像界》だけの音楽になります。美術ではこの《想像界》だけの状態になる現象は1980年代には大きな流れとして登場して、しかしそれは《現実界》だけの美術へと移行していきます。こうした変動をしめしたアーティストとしてはテリーライリーが分かりやすい変貌過程を示していました。

 こうした芸術上の問題だけでは無くて、《現実界》だけの人間というのが出現してきます。私が個人的な体験でであうのは1969年でした。ほぼ同時にそれは《想像界》だけの人間の出現でもありました。これらの人々は、ラカンの言う意味での狂気の人であったと言えるように思います。

 気がつくと、かなりの人が《想像界》だけであり、そして《現実界》だけの人間になっていました。さらに《サントーム》だけの人格にも出逢うようになります。

どうも総合的な人格に出逢うことが、むずかしいという状態になるのです。

このような分裂を、文明の狂気化としてみると共に、新しい進化であるととらえることも重要であると思います。

つまりこうした分裂を、人間の多様性としてとらえ、肯定的に、そうした状態に適応することが重要なのではないでしょうか。


アスペルガー症候群(2) - 2012.05.27 Sun

アスペルガー症候群(1)


私自身はそうは思わないけれども、他人は私をアスペルガー症候群であると思っているようである。

私から見ると、糸崎公朗さんも、典型的なアスペルガー症候群に見えるし、栃原比比奈さんもアスペルガー症候群に見える。


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《現実界》だけの人との研究に向けて(2/4) - 2012.05.23 Wed

《現実界》だけの人との研究に向けて(2/4)

まず、《現実界》だけの人々は、彦坂の言語判定法で分析する限り、かなりの人数存在しています。ありふれた存在であり、今日の社会の一般的な傾向なのです。

有名人では、すでに上げている名前では朝青龍、沢尻エリカですが、これは彼らがスキャンダルを起こしたことから判明したというものです。

繰り返しますが、名前を上げられない普通の人々や作家にも、実に多くの《現実界》だけの人々がいます。これが現実であると言うことです。そういう意味で、《現実界》だけの人について、観察し研究することは重要な事なのです。

人間の精神が分裂して、《現実界》だけの人、《想像界》だけの人、《象徴界》だけの人、《サントーム》だけの人に分裂しているようなのです。とは言っても、《想像界》だけの人の人数が圧倒的に多くて、図式的に予想すれば8割の人が《想像界》だけだと考えられます。

確かにU2とかオアシスのような《第6次元 自然領域》のロックがはやって、大量の視聴者を獲得しているので、こうした音楽が共通する文化であるとも言えます。市場ということを考えれば、この《想像界》だけのアートこそが重要であると言えます。

しかし本当にそうなのでしょうか。
むしろ現在は共通する文化の無くなった時代です。趣味の多様性というのは、同時に人格の多様性であって、つまり共通する文化や価値は失われて、分かる者どおしが繋がって島をつくる。その島がいくつも成立して、群雄割拠した状態になっている。ちょうど昔の戦国時代のような世界が広がっている。

一見、共通する文化が存在するように見えて、実際には深い亀裂が走っていて、分裂が埋めがたく広がっている。

東 浩紀が指摘しているように、日本はバラバラになっているのです。崩壊の時代であると言えます。

 そうした中で、自分なりの小さな島にたどり着くことが重要ではないでしょうか。各自が、自分の価値にあった人を見つけて、群雄割拠して、各自の文化を創っていく時代なのです。
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《現実界》だけの人の研究に向けて(1/4) - 2012.05.23 Wed

《現実界》だけの人の研究に向けて(1/4)

人間関係に関する悩みというのは、いつの時代でもあるものです。

今日の人間関係の悩みは、2つあります。家族関係と、業界関係です。

どちらも直接的に接する人間関係です。

もっともそれ以上というか、直接性の無い、間接的な関係での悩みというのもあります。どちらにしろ、自分の感性に不快を与えてきて、何らかの反撃や、否定や、破壊をする必要を生じるのです。

ヘーゲルの哲学では、この他人との関係の戦いや破壊が重要な主題になっている面があります。

ここで2つの態度があります。つまり社会的に他人と戦って説得し、破壊し、評価を得ていくことを目指す生き方が一つです。もう一つは、他人とは、戦いをしなくて、頭を低くして、小さくなって、やり過ごし、小さな自分の住み処の中に隠棲していく生き方です。


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織田信長の人格分析は可能か? - 2012.05.05 Sat

朝青龍織田信長
朝青龍と織田信長の人格の比較を試みる


織田信長の人格分析は可能か?

Aさんからコメントをいただいているのだが、私から見ると、基本的に先入観による意見であって、学問的反省性を持った意見には感じられない。

人間の意見には2つがあって、一つは自然的な態度で、そこでの意見は先入観である。

たとえば私は「馬を知っている」「ライオンを知っている」と言ったとします。

しかし馬も飼ったことは無いし、ましてやライオンを飼ったことは無い。馬の体重やライオンの体重も知らない。馬のおしっこの臭さも、ライオンの糞の量も知らないのです。



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女性性器と会田なにがし/2チャンネル - 2012.04.12 Thu

情報出典:http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/gallery/1321508176/

会田誠

1 :わたしはダリ?名無しさん?:2011/11/17(木) 14:36:16.06
会田 誠(あいだ まこと、1965年10月4日 - )は、日本の現代美術家である。
武蔵野美術大学非常勤講師。
アーティストグループ『昭和40年会』に参加したり、
若手の芸術家や学生をまとめ、自宅で『西荻ビエンナーレ』を開催するなど、
幅広い活動をしている。平面作品に限らず、
映像作品の監督・出演、またフィギュアなどの制作もしている。
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ブッシュと猿 - 2012.03.25 Sun

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ジョージ・ブッシュという前アメリカ合衆国大統領は、チンパンジーと良く比較されました。

ここで、ブッシュと、チンパンジーの顔を、彦坂尚嘉の言語判定法で分析しておきたいと思います。とは言っても、読者には煩雑なので、先に比較した結論を書いて起きます。後に詳細な分析がありますので、興味のある方だけが読んでください。

言語判定法による分析を整理して比較してみます。


格の比較

チンパンジーは《第1次元 社会的理性領域》~《第6次元 自明性領域》であるが、ブッシュは《第8次元 信仰領域》だけの単層である。
その意味では、チンパンジーの精神の方が格段に複雑である。

3界の比較
両者共に、《想像界》だけしか無い。

上中下の判断

ブッシュの精神は下の下である。
チンパンジーの精神も、下の下である。
その意味では、ブッシュはチンパンジー並の精神であると言える。

理性脳と原始脳

ブッシュには理性脳だけがあって、猿には原始脳だけがあると、彦坂の言語判定法では判断する。その意味では、決定的に違いがある。

A級B級
ブッシュはB級の精神性だが、チンパンジーはC級の精神性で、一段階の差がある。

様態
ブッシュの精神の様態は固体だが、
チンパンジーは絶対零度である。


つまり絶対零度の精神というのは、チンパンジーの精神領域なのである。
岡本太郎の『重工業』以後には、この絶対零度の現代芸術が沢山生み出されるが、それは敗戦ボケの結果とも言えるが、チンパンジーレベルの現代美術なのである。日本人の現代美術の多くは、こういう面を持っていると言える。



彦坂尚嘉責任の[ ジョージ・ブッシュの顔]に対する言語判定法による芸術分析


アヴァンギャルドな精神では無い。
伝統的精神である。古いタイプの人物である

《想像界》の眼で《第8次元》の《デザイン的精神》
《想像界》の眼で《第8次元》の《デザイン的精神》
《想像界》の眼で《第8次元》の《デザイン的精神》

《想像界》だけの単層的な精神。ただし《象徴界》《現実界》《サントーム》の3界はない。
上中下で言うと、下の下である精神。

《固体》の様態の精神。したがってプラズマ/液体/絶対零度の3つの様態は無い。

《シリアスな精神》ではない。
《気晴らしの精神》である。

シニフィエ的精神で、シニフィアン的精神を持ち合わせていない。

理性脳はあるが、原始脳性の無い精神。

《透視的人格=文明的な人格》では無い。
《原始的人格》である

【B級的人格】。

《原人格》《人格》《反人格》《非人格》《無人格》という概念梯子が無い。

《世間体の人格》はある。
《真性の人格》ではなくて、キッチュ人格である。

人格空間の意識の大きさが《近代国家》である。

情報量が100ある人格。
クリエイティヴでは無い。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ついでに、チンパンジーの顔も分析しておきたく思います。

彦坂尚嘉責任の[ 野生のチンパンジーの顔]に対する言語判定法による芸術分析

野生のチンパンジーに人格=精神はあるのか?
ある。

キルケゴール的に言えば「精神とは自己自身に関する関係である。あるいはその関係への関係である」ということです。
その場合、野生のチンパンジーには、キルケゴール的な関係性を自己自身に対してもっているのです。

それに対して、昆虫は、このような自己自身に関する関係性としての精神性を持っていないのです。
つまり即時的な機械なのです。


野生のチンパンジーの精神は、アヴァンギャルドな精神では無い。
伝統的精神である。古いタイプの精神である。

《想像界》だけの単層的な精神。ただし《象徴界》《現実界》《サントーム》の3界はない。

《想像界》の眼で《第6次元》の《デザイン的精神》である。

上中下で言うと、下の下である精神。

《絶対零度》の様態の精神。したがってプラズマ/液体/固体の3つの様態は無い。

《シリアス精神》ではない。
《気晴らし精神》である。

シニフィエ的人格や、シニフィアン的精神は持ち合わせていない。シーニュ性が無い。
つまり言語的な精神では無い。

理性脳は無い。原始脳性の精神。

【C級的精神】。

《原精神》《精神》はある。しかし《反精神》《非精神》《無精神》という概念梯子が無い。

《世間体の精神》は無い。
《真性の精神》でも、《キッチュな精神》でもなくて、《原始的な精神》である。

精神空間の意識の大きさが《群れ》である。

情報量が10ある精神。
クリエイティヴでは無い。




人間精神の3界、あるいは4界について(2 《想像界》の変貌) - 2012.03.23 Fri

チンパンジー



ヤスミツさんから問いにどのように答えるのか?

今日の世界には、いろいろな精神を持った人々がいるのですが、人類の歴史をさかのぼると、人間精神の起源がもつ多様性のがあらわれます。

人類の歴史は、今日では700万年と言われます。ホモサピエンスになっても20万年あるというのです。この初期の人類が残した石器や美術品と今日の眼では言うようなものを見ていくと、彦坂尚嘉の言語判定法では、《想像界》だけで作られていると判断されます。

それはチンパンジーが、《想像界》で《第1次元 社会的理性領域》から《第6次元 自明性領域》の精神を持っていることに関係性があるかもしれません。



つまり今日でも多くいる《想像界》だけの人々と、彦坂尚嘉の言語判定法では判断される人々は、実は人類史のなかでは昔からいる古い人々なのです。つまりチンパンジーに見られるような、精神性は、人間にもあるのです。



とは言っても、実は大きく違うのです。
『美術の3万年』という本で見ていくと、エジプト文明などの、いわゆる農耕を初めての文明が発生する以前の原始美術を見ると、《想像界》だけの美術品ですが、そこには「《超次元》~《第6400次元》までの多層性があります。

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ところがエジプト文明が出現すると《象徴界》で、しかも《第1次元 社会的理性領域》だけのある美術作品がエジプトに出現するのです。

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つまりエジプト文明が発生すると、《第1次元 社会的理性領域》だけの《象徴界》が発生するのです。



が、《象徴界》の《第1次元 社会的理性領域》だけの美術が出現すると、《想像界》にも変化が起きます。

このエジプト文明以降の《想像界》の美術を見ると、《第6次元 自明性領域》だけの単層の美術品が出現するのです。その代表が日本の中期縄文の火炎式土器です。

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つまり、人類史の本来の《想像界》というのは《超次元》~《第6400次元》という多層性があったのですが、文明が出現して《第1次元 社会的理性領域》の単層だけの《象徴界》が出現すると、《想像界》は《第6次元 自明性領域》だけの単層になったのです。

今日、普通の意味で原始美術とか、プリミティヴアートと言われているものには、
《想像界》で《第6次元 自明性領域》だけの単層のものが多く含まれています。

しかし原始美術とか、プリミティヴアートの《真性の芸術》作品は、
《想像界》だけではありますが、《超次元》~《第6400次元》ある多層のものにこそ、
人類史の起源の秘密を秘めた意味があるのです。

《想像界》で《第6次元 自明性領域》だけの単層の原始美術というのは、
ニセの原始美術であり、つまりキッチュ化した原始美術なのです。

そのことは、今日の《想像界》だけの人々の精神にも言えて、《第6次元 自明性領域》だけの単層の薄い精神性になっているのです。

つまりこのエジプト文明の出現が、人類の精神を大きく変えたのです。つまり《象徴界》というものを理解するには、このエジプト文明と、それ以前の自然採取段階の原始生活の差を理解しないと、理解が不十分になると言うことになります。


人間精神の3界、あるいは4界について - 2012.03.21 Wed

ヤスミツさんから、次の様なコメントをいただいた。

「鏡に映った錯覚の世界」
が想像界。
「鏡の中と外があるという錯覚の世界」
が象徴界。
「鏡の世界は錯覚」というのが現実界。
でよろしいですか。


このラカンの3界の話を、このように簡単に書くことは、間違えであることになる。

問題なのは、すべての解説というのは、ある意味での嘘であって、みな、問題がある。

ラカンの解説書を読むと、分かりやすい。
しかしジャック・ラカンの『エクリ』や『セミナール』を読むと、極めて難解で、解説書のような明快さはどこにも無い。つまり、解説書は嘘を書いているのであって、それを信じるのは問題がある。

スラヴォイ・ジジェクの本にしても、おもしろい事はおもしろいが、私は問題が有ると思っている。特に「現実界」という言葉の使い方は、通俗的であって、駄目だと思う。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

彦坂尚嘉の視点は、ラカンの文献学ではないので、私が解説を書いたところで、ラカンの入門にはならない。そもそも私は、ラカンの入門書を書こうとは思わない。

彦坂尚嘉の視点で言うと、たとえば《象徴界》の無い人が存在している。このことをラカンは知らなかった。

その《象徴界》の無い人に向かって、《象徴界》をいくら解説しようとしても、これを理解できるものではない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

まず、《想像界》だが、この《想像界》だけの世界に生きている人がいる。

具体例をあげると分かりやすいのだが、《想像界》だけで、《象徴界》の無い音楽としては、ひとつはU2である。

このU2の音楽をすばらしいと思って聞ける人は、《想像界》だけの人格である可能性がある。




彦坂尚嘉から言えば、このU2の音楽は、《第6次元 自明性領域》で、しかも《想像界》だけだから、極めて通俗であって、おもしろくない音楽なのだが、しかし多くの人は、このレベルの音楽を深く愛しているのである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

《想像界》だけの歌というものに対して、《象徴界》だけの歌というものがあると、彦坂尚嘉の言語判定法では指摘するのです。

その代表がマリア・カラスの歌唱です。



マリア・カラスの歌が、非常に高い評価を得ている一つの原因は、この《象徴界》だけの音楽であるという極端さにある。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、もう一つ、《現実界》だけの歌唱世界をあげておきます。その代表の一つが、モーターヘッドの音楽です。モーターヘッドが、音楽を現実界に還元しているのです。



《現実界》だけに芸術を還元した初期の代表作は、デシャンのレディメイドオブジェだが、それが音楽になって、しかも多くの聴衆をあつめる商業主義になると、このモーターヘッドのような音楽になるのです。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


さて、もう一つ《サントーム》だけに還元した音楽をあげておきます。ニッキー・ミナージュのラップです。



ラップは、1980年代に登場しますが、前身としては、ジャマイカのトウスティングや、トリニダードのカリプソなどに見られます。異論はあるでしょうが、ボブ・ディランのフォークソングも、歌うという歌唱ではなくて、語り物であるので、ラップの前身であるとも言えます。日本ですと、河内音頭だとか、浪花節などに見られる、語りものなのです。それらは古くはアフリカの黒人音楽に起源をもつと言えるでしょう。そうした語り物が、情報化社会の中で、ラップとして、「真実を語る」という理念を内包して過激な展開を遂げて、《サントーム》の精神を体現しているのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》という4界が、このようにバラバラの状態で現れているのは、実は人類の歴史の中では、最近の事であると言えます。

つまりこうした音楽に見られるように、人間の精神がバラバラになって来ているのですが、こうしたことをジャック・ラカンは指摘していません。

今日のこうした現象は、1991年のソビエトの崩壊と、インターネットの登場以後に、極めて鮮明になって来ているものですので、

こうしたバラバラに解体してしる現在の人間の精神状態の中では、いろいろな人がいるので、すべての人に分かりやすく当てはまる説明というのは、無いのです。

では、どうしたらよいのか?





<脳>活性化の仕組み解明 仲間や遊具で賢くなる - 2012.02.23 Thu

自分自身は愚かだと思っていますが、それでも、馬鹿に見える他人も多くいるのです。特に、一人で仲間もいないで、《天上天下 唯我独尊》を決め込んでいる人には、どうしようもない『バカの壁』を感じます。どうしようもないという感情は、歳をとるにしたがって深くなってきていて、絶望的な気持ちになって来ています。

日本の男は、どんどんバカになっているように見えます。下に引用した新聞記事は、現在やたらに増えている孤独で臆病な男たちの愚かさを説明する医学的な見解と言えます。



<脳>活性化の仕組み解明 仲間や遊具で賢くなる
毎日新聞 2月23日(木)2時0分配信
 周りに多くの仲間がいたり、物に囲まれたりして刺激が多いほど脳の働きが活発になる仕組みを、広川信隆・東京大特任教授(細胞生物学)の研究チームがマウスを使った実験で解明した。脳の活性化に関係するたんぱく質とそれを作る遺伝子は人にもあり、人でも同様の仕組みがあるとみられる。23日付の米医学誌ニューロンに発表した。

 刺激が多いと、学習の効果や記憶力が良くなることは人を含めさまざまな動物を使った実験で示されている。しかし、こうした現象が起きるとき、脳の神経細胞や生命活動を担うたんぱく質の働きがどう変化しているかは十分解明されていなかった。

 チームは、刺激の多い環境の典型とされるはしごなど数種類の道具のある箱に15匹のマウスを入れて4週間飼育した。同時に、刺激の乏しい環境として、遊び道具のない箱で3匹のマウスを同期間、飼育した。その後、学習や記憶力の推移、両機能をつかさどる海馬の神経細胞の状態やたんぱく質の働きを調べた。

 刺激の多かったマウスは、刺激の乏しいマウスに比べ、迷路でゴールにたどりつくまでの時間が回を重ねるごとに短縮されることが確認された。さらにグルタミン酸などの神経伝達物質を運ぶ「KIF1A」、神経細胞の成長を促す「BDNF」の2種類のたんぱく質の働きがいずれも刺激の乏しいマウスの約1.7倍に活発化していた。

 また、2種類のたんぱく質の関係を詳細に解析すると、刺激に反応したBDNFがKIF1Aの働きを刺激し、KIF1Aが海馬の神経細胞の成長を促していることも判明した。【田中泰義】

《孤児》としての芥川賞受賞作家:田中慎弥 - 2012.01.21 Sat

人間の人格と芸術表現が、想像以上に深く結びついているのは美術と同様文学にも言えます。

17日、第146回芥川賞を受賞した田中慎弥氏の話題で、遅くて申し訳ないのですが、何しろ16日は南相馬に彩流社の編集者の出口綾子夫妻と、デザイナーの山田晋也氏と、レンタカーで作品5点(5点で一点という話もありますが)を持って、猛スピードで、しかも私が果敢に運転して、バテて無理になっても、誰も換わってくれなくて運転して、南相馬に行っていたので、テレビも観る暇は無かったのです。17日のも車で帰宅して、風呂に入って寝てしまったので、この芥川賞のニュースは知らないで過ごしたので、遅れてまして申し訳ありません。




まずは、このふてくされた態度は《孤児》の態度です。《孤児》としては典型的なもので、面白いですが、古いとも言えます。なぜなら、《孤児》というスタイルそのものは近代特有のアーティストのスタイルですから、古いのです。

《孤児》というのは、近代の《国民国家》の規模の人格からの退化形態なのですが、その最先端は何と言っても『悪の華』のボードレールでありました。現在の日本の《孤児》は、その風化形態と言えます。

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 ボードレールは《孤児》の先駆者

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《第8次元》の《孤児》、《超次元》~《第51200次元》の《孤児》


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彦坂尚嘉責任の[田中慎弥の顔]に対する言語判定法による芸術分析

アヴァンギャルドでは無い。
アウトサイダーである。
伝統的人物ではない。
現代アート的では無い。(固体で古い)

《想像界》の眼で《第8次元 信仰領域》の《真性の人格》
《想像界》の眼で《第8次元 信仰領域》の《真性の人格》
《想像界》の眼で《第8次元 信仰領域》の《真性の人格》
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界がある多層的人格。しかし《サントーム》は無い。

固体の様態をもつ古い単層人格。
しかし絶対零度/液体/気体/プラズマの様態は無い。

《気晴らし人格》の人物。《シリアスな人格》は無い。
《ローアート的人格》の人物。《ハイアート的人格》は無い。

シニフィエだけの人物。シニフィアン性はない人格。

理性脳の人物。原始脳性が無い人格。

《原始平面的人格》であって、《透視的人格》は無い。
オプティカルイリュージョン的人格ではない。
【B級芸術】。A級人格では無い。

《原人格》が無い。
《人格》《反人格》《非人格》《無人格》はある。
《世間体の人格》《形骸》《炎上》《崩壊》の概念梯子が無い。

《原-総合人格》ではない。
《総合人格》性も無い。

《原デザイン的人格》《デザイン人格》《非デザイン人格》《無デザイン人格》《世間体のデザイン人格》・・・の概念梯子がある。

《原大衆人格》《原イラストレーション的人格》《原シンボル的人格》の概念梯子がある。

《原-装飾的人格》《装飾的人格》・・・の概念梯子がある。。

《原-工芸的人格》《工芸的人格》がある。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

《真性の人格》ではない。《キッチュな人格》

人格の意識の大きさが《妖精》《群れ》《村》《国民国家》《グローバル》ではなくて、《孤児》である。

鑑賞構造が無い人格。

情報量が5である。
クリエイティヴではない。


 記者会見はお笑いとしては秀逸であったが、その人格を彦坂尚嘉の言語判定法で見る限りでは、読む必要性は認められないつまらない書き手と言うことになります。
 読みもしないで言うのは失礼なことではありますが、それが彦坂尚嘉の言語判定法による人相見の目的なのです。読む前に、顔で、読むにあたいするか否かを判定しようというのです。この田中慎弥を顔で見る限りは、古くて読むに値しません。母親と一緒にいて、自分はアルバイトもしないで小説だけ書いてきているというのも、母親に食わせもらっていた言うことでしょうか? ひどい話で、マザコンのお化けに過ぎません。こういう人物の小説に芥川賞を出すというのも、世も末と言うことです。
 これを機に、石原晋太郎が芥川賞の審査員を止めるというのは、良いと思います。






ラヴォイ・ジジェク/近代における《孤児》 - 2012.01.20 Fri

今日のコンピューター時代には、逆に”野生の思考”への回帰が見られると、スラヴォイ・ジジェクは書いています(『幻想の感染』198頁)。
スラヴォイ・ジジェクというのは、スロベニア出身のポスト構造主義系の思想家、哲学者、精神分析家です。パリ第8大で、ジャック・ラカンの娘婿にして正統後継者であるとされるジャック=アラン・ミレールのもとで精神分析を学び、博士号取得していまあす。現在はリュブリャナ大学社会学研究所教授です。

スラヴォイ・ジジェクは、彦坂尚嘉の言語判定法で顔を芸術分析すると、下記のようになります。

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彦坂尚嘉責任の[スラヴォイ・ジジェクの顔]に対する言語判定法による芸術分析

アヴァンギャルドでは無い。
インサイダーである。(ジャックラカンの顔の分析では、ラカンはアウトサイダーです。同様にフロイトもアウトサイダーです。ジジェクの顔がインサイダーであるということが、機械的に悪いことではありませんが、しかし精神分析というものの創立者とは違うということなのです。それはラカンの精神分析が自明化されているところにもっとも良く現れています。)
伝統的人物である。
現代アート的である。(つまり伝統的な面をもつ現代人)

《想像界》の眼で《超次元》~《第51200次元》の《デザイン的人格》
《想像界》の眼で《第8次元 信仰領域》の《デザイン的人格》
《想像界》の眼で《超次元》~《第51200次元》の《デザイン的人格》

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ジジェクは、難解で晦渋知られるラカンの思想を、映画やオペラを素材に語ることで、現代思想界の寵児となった人物です。しかし、ハリウッド映画を使って、あたかも人生そのものであるかのようにすり替えて語る手法は、人間の人生そのものの不可思議なとらえどころのない曖昧さの問題を捨象していて、疑問があります。特に《現実界》という用語の使用は、ラカンそのものと違うと言うだけではなくて、『「テロル」と戦争──〈現実界〉の砂漠へようこそ』では、むしろ日常用語に近い使用をしていて、私は間違いであると思っています。『幻想の感染』でも、「バイトーあるいはむしろデジタルな連なりーが、スクリーンの背後にある《現実界》である」という使用の仕方にも、通俗性があります。この通俗性はジジェクの顔の分析に現れるデザイン性と深く関わっています。Googleのようなポータブルサイトにおける《現実界》は、単なるデジタル記号ではありません。Googleの《現実界》というのは「人類が使うすべての情報を集め整理するという壮大な目的を持って設立された。独自のプログラムが、世界中のウェブサイトを巡回して情報を集め、検索用の索引を作り続けている」という、このミッションにあるのです。コンピューターというのは思考機械であって、物質や記号ではないのです。ジジェクのコンピューターの理解は世俗的で、通俗で、それ故に面白くわかりやすく見えるものなのです。実際のジジェクの思考は幻惑的であるだけでなくて、根本にデザイン的な不透明さがあるのです。それはラカンをはじめとした哲学をコピーすることを基盤に組み立てたデザイン的な思考そのもののもつ不透明性です。ですから、ジジェクの思想に対して「多産な業績の割にはワンパターンとの評もある」と言われるのです。

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《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》の4界がある多層的人格。
絶対零度/固体/液体/気体/プラズマの2つの様態をもつ総合的な人格。

《シリアスな人格》である。《気晴らし人格》も同時にもっている。
《ハイアート的人格》と《ローアート的人格》の同時表示。

シニフィエとシニフィアンの両面をもつ人格。

理性脳と原始脳性の両面のある人格。

《透視的人格ではない》《原始平面的人格》
オプティカルイリュージョン的人格ではない。
【B級芸術】。A級人格では無い。

《原人格》が無い。
《人格》《反人格》《非人格》《無人格》《世間体の人格》《形骸》《炎上》《崩壊》の概念梯子がある。

《原-総合人格》ではない。
《総合人格》性はある。
ただし《反-総合人格》《非-総合人格》《無-総合人格》性は無い。

《原デザイン的人格》《デザイン人格》《非デザイン人格》《無デザイン人格》《世間体のデザイン人格》・・・の概念梯子がある。

《原大衆人格》《原イラストレーション的人格》《原シンボル的人格》の概念梯子が無い。

《原-装飾的人格》《装飾的人格》・・・の概念梯子が無い。。

《原-工芸的人格》《工芸的人格》が無い。

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《真性の人格》ではない。《キッチュな人格》

人格の意識の大きさが《妖精》《孤児》《群れ》《村》《国民国家》ではないて、《グローバル》である。
しかし《地球のマグマ》や、《宇宙》、さらには《宇宙ー外》というものではない。

鑑賞構造がある思想家ではない。

情報量が1000である。
クリエイティヴではない。

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スラヴォイ・ジジェクが、今日のコンピューター時代には、逆に”野生の思考”への回帰が見られると書いているのは、
”野生の思考”というのは、具体的に「野蛮人」というような差別用語的な行為をしたり、
実際に入れ墨をしている人が増えているとか、ピアスを過剰に付けている人などには、こうした現象のことを言っています。
ホームレスの登場のこの範囲に入るわけであって、定住しないで野宿をしているというのは、未開段階への退行現象であると言えます。

しかし、何故にコンピューター時代には、「野生の思考」への回帰が生まれるのでしょうか?
その理由については、ジジェクは説明していません。

『野生の思考』というのは、フランスの文化人類学者のレヴィ・ストロースの著作の題名です。
1962年に発表されて大きな影響を与え、構造主義の勃興を生み出した名著であります。

私の言語判定法をつかって見えてくるものも、その多くは構造主義の構造の延長だと考えられます。
たとえば《超次元》~《第51200次元》までの階層というのも、実は《構造》なのです。

つまり彦坂尚嘉の芸術分析は、ジャック・ラカンの構造主義的な精神分析の延長性の上にあるものです。
それはですから『野生の思考』性をもっているのです。

レヴィ・ストロースというのは、ブラジルの先住民の研究を行い、さらにアメリカ先住民の神話の研究を行ったのです。友人にはシュルリアリズムのブルトンなどがいます。つまりブルトンなどのシュールリアリズムとは、構造主義は無縁の思想ではなかったのです。この場合、日本人が「シュルリアリズム」と聞くと、ダリやエルンストなどのイメージ主義のペンキ絵を思いますが、ブルトンが推し進めたのはアンドレ・マッソンの絵画であり、それがポロックの絵画を生み出していきます。

「野生の思考」というのは、文明以前の自然採取段階の”科学的な思考”とも言えるものです。それはブリコラージュと呼ばれる、ありあわせの材料を用いて、必要なものを作るような思考法です。比喩による思考方とも言えます。それは眼の前まえにある事柄を理解しようと努力する時に、その事柄と別の事柄との間にある関係、あるいは関係への関係に注目して、それと類似する関係性を有す別の事象群を連想して、その別のもの比喩とすることで、目の前の事象を再構成する思考方です。

Photshopのレンズ補正の機能を使って、画像に凸や凹のレンズ変形を与えることで、人格の大きさを画像化して、それに言語判定法で、言葉を対応させる。こうした手法は類似関係をつかった類比によって構造を析出して分析しようとするものです。


こうして、Photshopを操作して生まれる事象に異なる意味を与え、新しい「構造」を生み出せるのです。それは理論と仮説を通じて考える科学的思考と基本的に同質なもので、両者の相違について科学的思考が用いるものが「概念」であるのに対して、野生の思考が用いるものは「記号」であるとレヴィ・ストロースは考えました。私が言語判定法を使って用いるのは「言語」なのです。

フロイトやラカンの精神分析は、疑似科学だという批判を浴びせられました。彦坂尚嘉の芸術分析に関しても、同様の批判はありますが、科学的手法そのものが、人類史の中で違うリテラシーをとって現れてきているのであって、疑似科学だという批判は、必ずしも「だから駄目である」という結論にはならないのです。今日のアーティストやアートの芸術分析を、そのアーティストの人格の大きさを対象化して考えるというのは、極めて独創的な視点であり、その成果は、以後に述べるように興味深い者があります。

”野生の思考”への回帰という現象は美術作品にも顕著であって、1980年代にはいると具象への回帰として出現しています。
つまり抽象美術の時代が終わって、イラストまがいの作品が登場してくる背景にはコンピューターによるデジタル時代への移行が大きく関与していたと考えられます。

しかし作品上に現れてくるだけでは無くて、人間一人一人の自我の構造や大きさにも、このような野生時代への回帰が現れてきているのです。
つまり人格の大きさが、《国民国家》の大きさではなくて、《村》や《群れ》の大きさ、さらには《孤児》の大きさになってきていて、
かつての美術にあった公共性が失われてきているのです。

しかしこういう風に現在の状態だけを語って見ると見損なう問題が有ります。
つまりアーティストの人格が小さくなって、社会性や公共性を失ったのは、実はコンピューターが登場する前からあったのです。
このことを見ないと、現在を理解するのに不十分です。
次回はモダンアーティストの人格の大きさについて論じます。

M.スコット・ペック/《孤児》の精神の限界と意味 - 2012.01.07 Sat

平気でうそをつく人たち


佐伯さんという方から、次の様なコメントをいただきました。


精神分析家と言えるかどうか分からないのですが、彦坂様が以前取り上げていたM.スコット・ペック医師の心的空間は《孤児》でしょうか?

「平気でうそをつく人たち―虚偽と邪悪の心理学」と「愛すること、生きること」を読んだのですが、
「愛すること、生きること」の中で、《孤児》のカール・ユングを肯定的に引用していたことを、このブログ記事を読んで思い出したのです。

非常に感動した本なのですが、もしペックも《孤児》であるとしたら、その意見は矮小で問題のある物なのでしょうか?それとも、《孤児》であっても優れた指摘をしているということもありうるのでしょうか?

つまらない質問ですが、何かお答えいただければ幸いです。




M.スコット・ペックというのは、ベトナム戦争時に9年間にわたって米軍に勤務した精神科医で、「愛と心理療法」で大ベストセラーになった人物です。

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死後の世界へ

このM.スコット・ペックの言葉をネットで探すと次の様なものがあります。


自分自身を大切にするようになるまでは、

自分の時間を大切にはしないだろう。

自分の時間を大切にするようになるまでは、

何も成し遂げることはできないだろう。


非常に正統な意見だと思いますが、ここにあるのは、私的な生命を重要に見る考え方です。

私自身は、佐伯さんと同様にM.スコット・ペックに感銘を受け影響された人間ですが、そこに、ある疑問をうっすらと感じてきていたことも事実であったのです。社会的に生きるということは、「自分の時間」を他人に売って、賃金労働者として働くことであるからです。つまり「自分の時間を大切にする」ということに固執すれば、就職はできなくなって、フリーターになって、さらには引きこもりになってしまうかもしれないのです。つまり社会人を生きるということは、自分の時間を大切にしたり、自分が何かを成し遂げるというようなことではないのです。

佐伯さんのご指摘に沿って、M.スコット・ペックの顔を見てみましょう。

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この写真が、いちばんM.スコット・ペックの傷ついている様を示している写真のように思います。写真で見ると、M.スコット・ペックの心的領域は《孤児》です。その意味でフロイト以来の精神分析の系譜の医師につらなる人物です。

彦坂尚嘉の芸術分析で、このM.スコット・ペックの顔を見ると、



心的な空間の大きさが《孤児》である人物。

アヴァンギャルドである。
伝統的文明人格ではない。
現代人である。(プラズマ状態に基盤をおく精神)

《想像界》の眼で《超次元》~《第51200次元》の《真性の人格》
《想像界》の眼で《超次元》~《第51200次元》の《真性の人格》
《想像界》の眼で《超次元》~《第51200次元》の《真性の人格》


精神分析や精神科医というのは、何よりも自分自身が傷ついていて病んでいるので、それを直そうとして医者になっているというものだと思います。

私自身がラカンに興味をもって勉強していったのも、私自身が、さまざまな不幸を背負っていて病んでいたからで、ラカンの思想やM.スコット・ペックの教えは、たいへん優れていて、私にとっては有効であったと思います。ですから、今も、両者を尊敬しています。

しかし、そのことと、ラカンやM.スコット・ペックの心的空間が狭くて《孤児》であると言うことは、別の事柄です。

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フロイトと比較したウッドロウ・ウィルソン の顔をもう一度見てみましょう。この人の聡明で視野の広い《国民国家》の人格は、何故に成立しているのか?

ウッドロウ・ウィルソン

彦坂尚嘉の芸術分析で、このウィルソンの顔を見ると、



心的空間の大きさが《国民国家》である人物。

アヴァンギャルドでは無い。
伝統的文明人格である。
現代人ではない。(固体/前近代的人格に基盤をおく精神)

《想像界》の眼で《第1次元 社会的理性領域》だけの《真性の人格》
《想像界》の眼で《第1次元 社会的理性領域》だけの《真性の人格》
《想像界》の眼で《超次元》~《第51200次元》の《真性の人格》

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
まず、基本として《第1次元 社会的理性領域》だけの人物なのです。それに対してM.スコット・ペックの方は、《超次元》~《第51200次元》まである人格なのです。

《第1次元 社会的理性領域》だけに単層化した人格というのは、非常に安定しているのですが、《超次元》~《第51200次元》まである多層な人格というのは、非常に不安定で、深い闇におびえている傷ついた精神であるのです。

ウィルソンの場合、《現実界》は《超次元》~《第51200次元》あって、それはアメリカ大統領という世界最強の軍隊を動かす権力を握っているものの恐ろしさを秘めてはいるのですが、しかし《想像界》《象徴界》が《第1次元 社会的理性領域》の単層で、極めて安定しているが故に、《国民国家》の広い心的世界を持ち得ているのです。

石や煉瓦、木でもよいですが建築をつくって、雨風や外的をシャッターダウンして安全性を確保して、安心できる空間に生活する。こうした平和で安心できる空間の中で生活する快楽を当たり前のものとして長時間にわたって享受する。こうした生活状態が文明なのです。

こうした文明の生活を当たり前のものとして、幸せに生きている。しかもこうした安寧な生活を守るために掃除をし、そして病気や外敵の侵入阻止する守りを怠りなくやっている人物というのが、《第1次元 社会的理性領域》の人格なのです。

つまり《第1次元 社会的理性領域》だけの文明というのは、常に世界の汚濁に満ちた危険性を阻止して中に入れないような守りを固めています。

《第1次元 社会的理性領域》のエジプト的な芸術の目的とは、《第1次元 社会的理性領域》による《安寧》性の表現なのです。

ウィルソンの《国民国家》の広がりのある人格は、こうしたものとして形成されているのです。

しかしM.スコット・ペックのように9年間もヴェトナム戦争に従軍して、そこで戦う米軍の兵士たちの傷ついた心理と向き合ってきた人物は、《安寧》という様なものの中にいることができなかったのです。危険と不安に耐えて生きている者が見るのは、《超次元》~《第51200次元》の《死》と《生》の攻めぎあう不安定な恐怖に満ちた現実なのです。

《超次元》~《第51200次元》の人物の心理空間が、《孤児》や、《妖精》という形で、小さく狭くなるのは、文明という大きな共同体の《第1次元 社会的理性領域》の安寧の外部に出てしまっているからです。出てしまうと、自分自身を守る必要性から心的空間が狭くなるのです。

心的空間が狭くなる理由は、狭くすると守りが堅くなって、生に執着していくことができるからです。《孤児》は、自分の心的な生命を守ることに汲々としている面があります。《妖精》になると、永遠の生命を追及していて、完全なる個人主義者となります。

人間は生と死の攻めぎあいを生きていますが、心的空間を小さくすると《生》に固執し、逆に心的な空間を大きくして《宇宙》や、その外にまで拡大させると《死》への欲動を追求していくことになります。

M.スコット・ペックは、すぐれた精神科医で、すぐれた思想家だと思いますが、問題が有るとすれば、その《孤児》の狭さでもって問題を突き詰めすぎていることです。

『平気でうそをつく人たち』という本は刺激的で、隠された現実を告発しているすぐれた勇気ある本ですが、ウイルソン的な《第1次元 社会的理性領域》だけの単層の人格から見れば、《第1次元 社会的理性領域》という文明の単層生を生み出し、維持しているものこそが「平気でうそをつくこと」なのです。

エジプト文明以来の《第1次元 社会的理性領域》を成立させる文明そのものが虚偽と邪悪によって形成されているものであって、それを悪といっても始まらないというわけです。

その意味で、ウイルソン的な健康な精神から見れば、M.スコット・ペックはあまりにもまじめで、子供なのです。





















フロイトと《孤児》性について(校正1) - 2012.01.05 Thu


ジャック・ラカンの心的な空間が、《孤児》であるという指摘を前回しました。
ラカンが高く評価したフロイトもまた、彦坂尚嘉の言語判定法によると、その心的な大きさは《孤児》であったのです。

ジークムント・フロイト
フロイトの心的空間の大きさは、彦坂尚嘉の言語判定法では《孤児》

《孤児》というのは、猿で言えば、《群れ》から脱落した「離れ猿」です。コリン・ウィルソン的に言えば『アウトサイダー』のことです。フロイトがアウトサイダーであったので、だから無意識を問題としたのです。

このフロイトと同じ1856年に生まれた人で見てみると、その一人がアメリカの28代大統領になったウッドロウ・ウィルソンです。ウッドロウ・ウィルソンの顔を言語判定法で見ると、《国民国家》の心的な大きさを示しています。逆に言うと《国民国家》の心的領野を持っている人は、このような顔をしているのです。
ウッドロウ・ウィルソン
アメリカ28代大統領ウッドロウ・ウィルソンの心的空間は《国民国家》

ウッドロウ・ウィルソンは連続2期を勤めた民主党大統領で、非常に優れた人でした。
政治学者でもあって、博士号を持つアメリカで唯一の大統領です。
進歩主義運動の指導者として1902年から10年までプリンストン大学の総長を務め、1911年から13年までニュージャージー州知事を務めた後、1912年の大統領選では、共和党はセオドア・ルーズベルトとウィリアム・ハワード・タフトの支持に分裂し、結果として民主党候補であったウィルソンが大統領に当選したのです。

フロイトとウッドロウ・ウィルソンを比べてみると、ウィルソンが聡明な知性のある広い視野の顔であるのに対して、フロイトの精神がおかしくて、異様な集中性をもっていて、意識の幅が狭い顔をしていることが見えると思うのですが、どうでしょうか。
フロイトとウッドロウ・ウィルソン
《孤児》             《国民国家》

ウッドロウ・ウィルソンの方が人間として健康です。フロイトは異常です。心的領域の大きさが《孤児》であるというのは、明らかに問題が有るのです。

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フロイトと同じ1856年に生まれたサー・ジョゼフ・ジョン・トムソンというイギリスの物理学者も、
《国民国家》の心的な大きさです。

サー・ジョゼフ・ジョン・トムソン
サー・ジョゼフ・ジョン・トムソンは《国民国家》


フロイトと同じ1856年に生まれた三省堂の創業者の亀井忠一の心的な大きさも《国民国家》です。

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亀井忠一は《国民国家》


同じく浅井忠もフロイトと同じ年に生まれている画家ですが、《国民国家》の大きさの人格があります。

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浅井忠は《国民国家》


つまりこの近代の国民国家に生まれた人々の多くは《国民国家》の心的な大きさであるはずなのですが、フロイトは《孤児》の心的大きさなのです。フロイトという人が、近代の国民国家の共同体から脱落して、精神に異常をきたしていたのです。だから、自分自身の異常性の克服として精神分析を発見し、推進したと言えると思います。

ジークムント・フロイト
フロイトの心的空間の大きさは、彦坂尚嘉の言語判定法では《孤児》


同じ年に生まれた精神分析者エミール=クレペリンの顔を見ても、この人も、彦坂尚嘉の言語判定法では《孤児》なのです。

エミール=クレペリン
精神分析者エミール=クレペリンの心的空間の大きさは《孤児》


フロイトと違う年に生まれていても、有名な精神分析家の顔を見ると、すべて言語判定法では《孤児》です。

カール・ロジャーズ
カール・ロジャーズは《孤児》

ユング
カール・ユングは《孤児》


アルフレッド・アドラー
アルフレッド・アドラーは《孤児》

ヴィルヘルム・ヴント
ヴィルヘルム・ヴントは《孤児》


メラニー・クライン
メラニー・クライン は《孤児》

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ウイリヘルム・ライヒーは《孤児》

言い換えると、国民国家の時代に、この共同体の空間的な広がりから脱落した「離れ猿」のような人が、精神分析を始めていたと言うことになります。

つまり公的な世界よりも、私的な心理に注目するという形が、この精神分析の発生に見られるのです。

共同体の《国民国家》の空間から脱落してしまうと、さまざまな心的トラブルを生じるのです。フロイトの努力は真摯なものではありましたが、その原因は《孤児》という狭い心的領域そのものにあるのです。他の理由で探してみても、解決にならないのではないかと、私は思います。

しかしみんなと同じようにテレビドラマを見て、ラジオのつまらないディスクジョッキーを聞いていることに意味を見いださない人々が、出現してくるのです。多数派の感覚世界から脱落したときに出現してくるのが《孤児》の空間領域です。この《孤児》の心的領域は、内向的で、引きこもりであって、視野の狭さを含めて問題を多く抱えているものです。

繰り返すと、19世紀後半から20世紀にかけて、公共性と私的性が分裂していったのです。この事が同時に、モダンアートの発生に連動していくのです。


《孤児》/人格の大きさをめぐって(3)ラカン - 2012.01.03 Tue

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白蓮さんから、次の様なコメントを頂きました。

個人的にその人間の心の大きさが【孤児】だと考えると合点がいく例がいくつかありました。
そしてそういう人物が割りに高い地位についている現象もいくつか見てきました。
所謂、お山の大将的な人物ですね。

岡本太郎の奇妙に芝居がかった表情からラカンを連想しました。
http://www.youtube.com/watch?v=4gxoxP-4Bpk
というのはラカンの喋り方にも相当芝居がかったものを感じたからなのですがこれが何に由来する物なのか不思議で心に引っ掛かっていました。
以前彦坂さんが指摘していたようにラカンが古い意識の人だからなのか ?
あるいはラカンも【孤児】的な要素のある人なのか ?
興味は尽きないです。

その人物の心的空間の大きさという視点での言語分析をラカンに対しては、していませんでしたので、白蓮さんのご指摘は盲点を突かれるものでした。しかし心当たりはあるというか、たしかにラカンのしゃべり方はヒットラーを連想するようないようなものでした。そしてまた数式や図式の使用による難解さは、とても理解できる代物では無くて、これも異様なものでした。





一人の人物の心的な空間の大きさを判断する方法は3つあると思います。

一つは科学的な方法で、心理テストをやってデーターをとる方法です。
しかしラカンはすでに亡くなっていますし、それにそうしたテストに協力してくれるとも思えません。

もう一つはイメージで、その人物の心的空間の大きさを測るやり方です。イメージ判定方です。

三つ目が、彦坂尚嘉が開発した、言語判定法で、言葉を対象にたいして投げかけるという方法です。

まずは、イメージ判定方を試みてみましょう。
ヘーゲルと、ラカンの顔のイメージを比較して、その心的な大きさを見てみます。

ラカンとヘーゲル

一方が絵画ですので、イメージでの比較というのも、その精度は曖昧さが残ります。両方のデターが同じように写真だったからといって、その比較が、明晰性を増すわけではありません。
マルクスと比較してみます。

ラカン・マルクス


彦坂尚嘉の言語判定法ですと、ヘーゲルの心的空間の大きさは《《宇宙》の外部》という言葉に対応する大きさです。《宇宙》の外部というのは、わかりやすく言えば《死》ですね。《死》の世界から、この世を眺めて思索した哲学者がヘーゲルであったのです。

これをPhotshopで作成した画像に置き換えてみます。

《宇宙の外部》
ヘーゲルの心的空間は《宇宙》の外部
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



ラカンの心的空間は、彦坂尚嘉の言語判定法では、白蓮さんのご推察のとおり《孤児》の大きさでした。

《孤児》
ラカンの心的空間は《孤児》の大きさ

ラカンとヘーゲル

《孤児》と《宇宙》の外部

ヘーゲルとラカンを比較して心的空間を考察すると、実は時代の変貌の中で、人間の空間意識が大きく変わってきているという構造的変化が、垣間見えます。

次回は、フロイトを見てみたいと思います。













《群れ》/人格の大きさをめぐって(2) - 2011.12.31 Sat

日本の村社会の基礎にあるのは複数の《群れ》です。

ですから《群れ》の人格というのも、小さな心的な領域なのですが、《孤児》に比べれば大きくて、この数も非常に多いのです。

《孤児》
《孤児》


《群れ》
《群れ》

《群れ》という心的な大きさを理解してもらうために、首相を上げると、竹下登、福田康夫、そして鳩山由紀夫です。

竹下登
竹下登の心的な大きさは《群れ》

福田康夫
福田康夫の心的な大きさは《群れ》

鳩山由紀夫
鳩山由紀夫の心的な大きさは《群れ》

鳩山由紀夫の政治は、非常に評判の悪いもので、塩野七生に「日本の悪夢」と言われています。
彦坂的に見れば、それは《群れ》という小さな心性を持つ人格の人を、近代国家であるはずの日本の首相に据えたことにあるのです。
《群れ》ですから、せいぜい上野の猿山の大将が適任であったのです。

《群れ》の人には、《想像界》《象徴界》《現実界》の3界があります。それは《孤児》の人には《想像界》しかなかったことと比較すると、ずいぶんと違っていて、まともになっていいます。

《群れ》の人々は、しかし《第6次元 自明性領域》だけの単層の精神性しかありません。その意味で単純ではありますが、同時に安定しています。

鳩山・福田・竹下
《群れ》の心的空間を持つ日本の首相3人
 

《群れ》のロックの音楽家というと、その代表は宇崎竜童です。




イミテーション・ゴールド 宇崎竜童 投稿者 mimirin0111
宇崎竜童の音楽の心的大きさは《群れ》 

美術で言うと、開発好明です。
この人の不思議な低いクオリティの現代美術というのは、《群れ》の心的空間で作られていると、彦坂尚嘉の言語判定法では判定します。

578027588.jpg

開発好明
開発好明の作品の心的空間は《群れ》


《群れ》というのは、もともと猿の群れとか、自然採取段階の原始生活をしている人間の《群れ》ですから、原始美術のようなラフさとか、等身大感覚のクオリティに満ちているのです。《孤児》にあった不自然さは消えるのですが、《群れ》にはクオリティの低い自然さがあるのです。

 開発さんの作品が何であるのか? というのは、私にも謎であったのですが、《群れ》であるというのは、現代の美術を、自然採取段階に押し戻して、ある種の退化性の中で成立させていると言うことになります。

《群れ》そのものは始原性のある人間の意識空間ですが、現在の日本は、グローバル化に対して、その反対の《群れ》化や、《村》化という小さな空間に退化したり縮小化することで、身を守ろうとしているのです。

国際的な進歩に、もはや日本はついて行けなくて、日本全体が退化していこうそしているのだと思います。そういう時代の現代美術を体現しているのが開発好明さんではないでしょうか。


《孤児》/人格の大きさをめぐって(1)東條英機と菅直人(加筆2) - 2011.12.31 Sat

芸術とは何か? をめぐって追及することは、実は文明とか、人間に対する認識を含んでいて、想像以上に難しい事でした。

人間の心の中は、鏡の世界のようであって、その鏡も一枚ではなくて、合わせ鏡で、3面鏡や4面鏡になっているのです。
つまり心の中にある複数の鏡が鏡がお互いを映すので、複雑に組み合わさって、まるで鏡の地獄のように深い構造をつくります。

 一人の人間の中に何枚の鏡があるのかというと、それは人によって違います。ジャック・ラカンは、人間には《想像界》《象徴界》《現実界》という三つの精神領域があると言っていますが、これが彦坂尚嘉が言う鏡面です。

 つまり《想像界》の鏡面は、外部をイメージだけで映す鏡なのです。

 《象徴界》というのは、外部世界を、言語だけで映し出します。もっともこれは正確な言い方ではありません。《象徴界》の鏡で映し出すと言うことが、もうちょっと複雑で、なかなか説明できません。美術や建築作品では《質の善し悪し》を示していますが、その質というものがなんであるのかが、かなりむずかしいのです。
 
 わかりやすい例で言うと、安藤忠雄は、《想像界》と《現実界》では超一流の建築家ですが、《象徴界》では《第8次元 信仰領域》の建築家と、彦坂尚嘉の言語判定法では出るのです。つまり彦坂尚嘉の言語判定法で見ると、安藤忠雄は8流の建築家に過ぎないと見えます。
 
 話がずれましたが、もう一枚の鏡が《現実界》ですが、この言葉が指し示しているものが、一番むずかしいです。ラカンの用語としてもむずかしくて、普通の言葉で「現実」と言っているものは、すべて《想像界》です。
 ニューヨークのツインタワーに飛行機が突っ込んで、さらにビルが崩壊しましたが、ああいう想定外の現実の出現が《現実界》であるとラカンは言っています。今回の東日本大震災によって出現したものの《現実界》であったのです。

 彦坂尚嘉が言っている《現実界》は、ラカンの言うものよりもさらにむずかしいものです。たとえば建築作品を見たときに、《現実界》というのは図面の線で描かれた世界です。実際の建築を見ていても、建築家の眼は、図面でその建築を見ています。絵画の場合も、閉じられた黒い輪郭線だけで描かれたものが、《現実界》です。つまり普通の意味で現実というだろうキャンバスや絵の具という物質の事ではありません。
 
 この《想像界》《象徴界》《現実界》という性格の異なる3面鏡が、お互いを映しあって鏡の地獄の仮想世界を作り出すのです。今日ではさらに《サントーム》という第四の鏡が登場しています。
 
 しかしすべての人に3界や4界があるのではないのです。人類史で言うと原始社会では《想像界》しかありませんでした。それは原始社会が残した美術作品を言語判定方で測定することで分かります。《想像界》だけしか無い場合には、複数の鏡が無いので、外部世界を映しだしても、複雑に映り込んでは行きませんので単層なのです。しかし原始美術を彦坂尚嘉の言語判定法で見ると《超次元》~《第6400次元》までのすごい数の世界です。この複雑性はなんなのでしょうか? 《想像界》というもの自体が、最初から複数の鏡で出来ていたのだと考えられます。
 
 エジプト美術になると《象徴界》だけになり、しかも《第1次元 社会的理性領域》だけの単層の美術が圧倒的な数になります(例外的に《超次元》~《第6400次元》の美術もあります)。なぜにエジプトになると《象徴界》が登場するのかというのは、書き言葉による記録の登場が大きいのだと思います。

 《現実界》が登場するのは、日本美術史でいうと鎌倉時代の運慶の仁王像です。西洋美術史ですとルネッサンスのレオナルド・ダ・ヴィンチやラファエロの美術からです。
 
 つまり《想像界》《象徴界》《現実界》というものは、人類史の中で次第に登場してきたものであったのです。それだからだと思いますが、現在でも《想像界》だけしかない人々がいます。さらには《現実界》だけしかないように言語判定法では見える人もいます。


この人間の心的な大きさも、人によって、その鏡像世界の大きさに違いがあるのです。

この人間の心的な世界の大きさを、Photshopでつくることに挑戦してみました。

まず、日本の中にかなりたくさんいる《孤児》という、小さな人格の大きさです。

《孤児》
《孤児》

《孤児》の人は、想像以上に日本社会の中心部にいます。
彦坂尚嘉の言語判定法というのは、この「孤児」という言葉を、投げかけて探すのですが、たとえば、東條英機は、この《孤児》の大きさの人格でした。

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東條英機の心的世界の大きさは《孤児》

この東條英機の表情にある後ろに引いた感覚が、人格の小ささを示しています。《孤児》というのは、猿の群れで言えば、《離れ猿》なのですが、日本社会は、実は良く言われるように「村社会」ですので、《村》というのは、複数の《群れ》の集合なのですが、この集合体が、お互いに足の引っ張り合いをしている嫉妬関係の強い絆で結びついているために、強いリーダーを上に頂くことが出来ない構造なのです。だから離れ猿の《孤児》を、トップに据えて、御神輿(おみこし)に乗せるのです。

東條英機は、日本とアメリカの軍事力の差が、3000倍もあって非常に大きいと言うことを理解しないで戦争に動いていますが、このように全体の広がりや深さを把握しないで、非常に表面的な部分性だけに集中して動くという行動的な特徴があります。

《孤児》の人の人格は、心的な空間が小さいと言うだけではなくて、《想像界》だけしかない人格なのです。しかも《第6次元 自明性領域》だけの単層しかない人格です。


菅直人前首相の人格の大きさも《孤児》でした。

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菅直人前首相の心的世界の大きさは《孤児》

菅直人は小沢一郎の追い落としにすごい集中力を示しましたが、小沢一郎のようにグローバルな大きな人格を持つ人に対して、それを排除しようとする傾向は、他の領域でも見られます。

日本の敗戦を生み出したのは東條英機でしたが、日本の第二の敗戦を生み出した菅直人も、東條とよく似た人格の大きさを持っていたのです。二人のまなざしの小ささは、どこか似ていると見えるのは私だけでしょうか。

東條と菅
菅と東條

日本の社会というのは、おうおうにして、こうした《孤児》をトップに据えるのです。ですから《孤児》という小さな心的大きさを持つ人々は、奇妙にニセの社会性を持っています。つまり上手くすれば偉くなって、社会の御神輿に座って、トップの地位に就けるかもしれないからです。

加筆しますと、トップに立った《孤児》が大きな被害を出したれいとして東京電力の会長・勝俣恒久がいます。

勝俣 恒久
勝俣恒久の心的な大きさは《孤児》

勝俣恒久も彦坂尚嘉の言語判定法で、《孤児》と言う言葉を投げかけると反応がとれるということで見つけたのですが、もともと原発事故の時のニュースで「カミソリ」という異名をもって、恐れられたという報道と、その顔つきの異常さが印象的で、気になっていたのです。

もう一人追加しますと、オウム真理教の教祖・麻原彰晃です。

麻原

麻原彰晃

トップが、優れた人物では無くて、無能力で、社会性も、人格力も無い人であるというところが、日本社会の特徴なのです。
ですから、橋下徹のような、変革をめざす、心的領域がグローバルで大きい政治家に対しては「独裁者だ!」と非難して、追い落としをはかろうとするのです。

大きな人物を嫌うという日本社会の構造は、島国根性と言われるものだと思いますが、この民族の避けがたい構造のように思えます。

それゆえでしょうか、実は日本の芸術家には、この《孤児》の心的な大きさを持つ作家が多くいて、高い評価を得ています。その作品が本当に優れている芸術であるとは、私にはどうしても思えないのですが、そうしたものを日本人は好むのです。

音楽家で一人上げると、矢沢永吉です。
この人のニセの歌唱が、《孤児》の表現の本質を示しています。
アメリカのジョンソン大統領は「偉大な国家は、偉大な芸術を持つ」と1965年に出した宣言で署名していますが、日本は「偉大な芸術」ではなくて《矮小な芸術》を志向しているかのようです。矢沢永吉の歌には、そうした《矮小な芸術》に耽溺する自己陶酔があります。



日本の現代美術で、この矢沢永吉的な自己陶酔性と矮小さを持つ《孤児》の美術を上げるとすると、その代表は、岡本太郎の絵画でしょう。



060803_01.jpg
岡本太郎の心的な大きさは《孤児》
 
taro-Heavy-Industry.jpg
岡本太郎作品の心的な大きさは《孤児》

岡本太郎の残したビデオを見ると、不自然なほどに演技していることが見えます。この演技性というのものとか、不自然性というのが、《孤児》の表現の特徴としてあります。



この矢沢永吉と、岡本太郎的な《矮小な芸術》を日本の芸術の避けがたい問題として引き受けながら、どのようにこの限界を突破するのか?
という課題が、私のこの文章の目的なのです。










《孤児》化と、公共性の喪失 - 2011.12.27 Tue

このところ、笹山直規さんとメールのやりとりをしていて、死の問題や、自動車事故や航空機事故という問題を取り上げて描いている笹山さんの絵画の公共性の問題で、芸術の公共性を問題にする思考は飛躍的に厳密化が進んだのですが、しかしそれを多くの人に分かる文章や画像にしようとすると、なかなかわかりにくくて、できなくなっています。

笹山さんの取り上げる主題には公共性があるはずなのですが、作品そのものは、公共性が無いと、彦坂尚嘉の言語判定法では出ます。それはjenny savilleでも同様です。

わかりやすいところで書くと、笹山さんの絵画は一生懸命に描いておられるし、私は基本としてはその中の良い作品は評価しますが、空間が小さくて、彦坂尚嘉が言うところの《孤児》なのです。作品の実際の大きさではではなくて、作品を成立させている心の中の空間の大きさです。心的空間の大きさが、一番小さいものが《孤児》です。
 jenny savilleでも同様で、その作品の心的空間は《孤児》です。

ご参考までに彦坂が考える人間の心的空間をあげると、《孤児》、《群れ》、《村》、《古代帝国》、《近代国家》、《グローバル》、《宇宙》、宇宙ー外》と大きくなっていきます。

猿で考えると、普通には自然の猿は《群れ》を生きています。《群れ》から離れた孤独な猿が「離れ猿」です。ですから《孤児》と呼んでいる心的空間の大きさというのは「離れ猿」のそれとも考えられます。

《孤児》であるからといって悪いわけではありません。たとえば写真家の森山大道さんの空間の大きさは《孤児》です。もっとあげますと、ギュスターヴ・モローの絵画空間が《孤児》です。

日本の現代アーティストには《孤児》は多くて、やなぎみわ、会田誠、内藤礼、松井冬子、できやよい、小谷元彦、の作品の心的空間は《孤児》の小ささを示しています。

It君も《孤児》です。
最近発見したのは、谷川俊太郎の心的空間が《孤児》です。サトウハチロウという昔の詩人も《孤児》です。寺山修司も《孤児》です。角川春樹も《孤児》です。こういうと詩人はすべて《孤児》の心的空間に生きているように思われるかもしれませんが、そうではなくて茨城のり子や、八木重吉は《宇宙》の大きさがあります。私はこの《宇宙》規模の大きな心的空間を持つ表現者の方が好きです。

こう見ると、実は《孤児》の小さな空間性のアーティストと、前回の《公共性》の無いアーティストの名前が全く重なっていることに、気がつくでしょう。

簡単に言うと、心的な空間の大きさが小さいと、実は公共性が、本質的には成立していないと言えます。つまり公共性の成立自身が、近代の《国民国家》においてだからです。

奈良美智の作品の心的空間の大きさは《村》ですから、今日のアートの空間性では無くて、昔の古い農村の様な人間関係の中を生きている人の作品であると判断します。そういう意味では現代アートではないと私は考えますが、実はこの《孤児》《群れ》《村》という小さな空間への退化というのは、近代国家が終わって、グローバリゼーションでもって、私たちの空間が拡大したために起きているのです。束芋も《村》です。伊藤存も《村》です。

とは言っても、谷川俊太郎のデビューはグローバリゼーションの前ですから、《孤児》というのは、もっと前からあったと考えられます。しかし現在のグローバリゼーションによって、空間の拡大は、同時に空間の縮小化を招いているのです。

つまりグローバリゼーションで空間が拡大したときに、進歩があれば退化がある。空間が拡張すると、反動として空間の縮小が起きるという事態が起きているのです。

草間弥生の作品の心的な大きさは《近代国家》です、李禹煥、杉本博司、岡崎乾二郎も《近代国家》の大きさの心的空間です。

今日の私たちが生きている空間は、少なくとも《グローバル》な状況を生きているので、《グローバル》な空間性を有する作家を今日の同時代性のあるアーティストであると考えます。ですから、たとえばジェフ・クーンズ や、ダミアン・ハーストは、その作品空間が《グローバル》なので、今日のアーティストとして存在していると考えます。村上隆もO JUN も、《グローバル》です。だからから良いのですが、このグローバルの空間への膨張が同時に、《孤児》や《群れ》《村》への空間の縮小化をも、反動として生み出しているのです。


大きく言うと、ある時期から、現在の近代文明が変貌してきて、近代社会を形成してきていいた《公共性》というものが、グローバル化していく時代の中で衰弱してきて、べつのものに変貌してきたいるのです。そのことをとらえた本がネグリ/ハートの『帝国』という本が示しています。。それが「芸術」にも大きな影響を与え、「批評」も不要な状態になって来ているのです。

意識の広さと不安定性 - 2011.12.16 Fri

下記にあげた図は、《超次元》~《第51200次元》を図示したものです。

格付け 表4全体図


ラカンの鏡像理論を踏まえているので、鏡像で、倍々になって、拡大していきます。そうすると最後の《第25601次元》~《第51200次元》というのは、広大なスペースになります。この闇の深さは、極めて怖いものです。

しかしシャネルなどの超高級ブランドには、この《超次元》~《第51200次元》の商品はふつうにあります。


抽象的で、観念的に見えるかもしれませんが、現実には、800~1600次元までは、現実のアニメなどで発見できているので、もう少し、こまめにご紹介できればと思います。

一番右の角の白い部分が、普通の私たちの世界で、それが冷戦構造では、下記の様になっています。

格付け 表3


さらに、普通の世界は、下記の表です。

格付け 表2-2


もっと日常の《第6次元 自明性領域》にアップすると、下記の表です。

格付け 表1


つまり、私たちの頭脳の中にある鏡像の世界は、極めて複雑で、広大なのです。それを《第6次元 自明性領域》にだけ単層化して生きることは、一つの知恵であると言えます。それは安定しているのですが、同時に多くのことを見ないようにしています。

一方で、《超次元》~《第51200次元》までの人格を持っていると、不安定で、非常に危険なものです。レイ・チャールズも麻薬を20年もやっていましたが、それはこの《超次元》~《第51200次元》の不安からではないでしょうか。

すぐれた芸術作品というのは、《超次元》~《第51200次元》のものが、多くあります。これが芸術の一つの秘密なのです。

同時に、芸術には、エジプト美術のような《第1次元 社会的理性領域》の単層のものが、大きな領域としてあるのです。

この多層性と、単層のはざまに、さまざまな芸術が存在しています。
つまり芸術は、決して一つでは無くて、この両極に挟まれた人間精神の矛盾の有り様を示しているものなのです。



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プロフィール

New HIKOSAKA 彦坂尚嘉

Author:New HIKOSAKA 彦坂尚嘉
彦坂 尚嘉(ひこさか なおよし、1946年6月26日 - )は、 美術家。立教大学大学院特任教授。日本建築学会会員。日本ラカン協会会員。気体分子ギャラリーを主催。

【著書/出版】『反覆/新興芸術の位相』(74年、田畑書店)、『死に対抗する力』(91年、ギャラリーKURANUKI)、『リノメランコリア』(94年、岡部版画工房)、共著『リベーションの現場』(05年、彰国社)、共著『メディアと精神科医』(05年、批評社)。共著編『皇居美術館空想』(08年9月朝日新聞社)。『彦坂尚嘉のエクリチュール』(08年、三和書籍)、共著『3・11万葉集 復活の塔』(2012年、彩流社)

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