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2017-03

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1万時間 - 2013.03.27 Wed

養老孟司の『バカの壁』が指摘した人間の個人と個人の間にある亀裂というか、埋められない溝というのは、実は《想像界》によって覆い隠されています。

今日の社会においては、どうも《島》と言われるような小さな集団ごとに、この《想像界》による同一化の《同調バイアス》のシェルターがかかっているようです。それは原始社会の《群れ》の形成に似ているように思います。この《同調バイアス》の内側で、小さな社会が形成されます。この《同調バイアス》を成立させているものが《想像界》という精神のリテラシーです。
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ピカソの様態変化 - 2013.03.16 Sat

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《様態》という言葉は、日常用語で言えば「状態」ということです。「状態」ということの変化が見過ごされてきているようにおもわれるので、私は重要だという主張です。

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中国の上海に行くと、現代的な構造建築が建ち、モダンデザイン的なるものがあふれています。だから現代社会になっているのかと思うと、違います。《ニセの現代》なのです。

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「状態」という視点で上海を見ると、封建社会のままであって、そこに生きている政治家でも現代美術家でも、現代的なものを表面的には模倣しているけれども、精神も社会組織も、江戸時代のような封建的なものなのです。

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アイ・ウエイウエイの面白さと限界 - 2013.03.14 Thu

アイ・ウエイウエイは面白いから、楽しめば良いというのが、先ず第一であろう。



アイ・ウェイウェイの作品は、軽くて楽しいですが、《ライト-アート》だからです。

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欧米の現代美術をお手本にして、それを《想像界》だけの領域でなぞった作品だからです。一番典型的なのは「FUCK」と自分の裸の胸に描いた作品ですが、これも欧米の目を前提に、欧米的なものをなぞった作品であって、私たちの共感に乗るを狙った《ライト-アート》の作品です。模範解答ではありますが、《真性の芸術》の破壊性が持つ神秘はありません。

同時にその裏には、《ライト-アート》が一般に持つ、社会的に正しいメッセージ性があります。批判していっているのでは無くて、下記に貼り付けたYouTube動画の持つ正しい社会的メッセージというのは、芸術が社会的なものであることを、疑いも無く認め、その上に載せてくる主張は、誰も反対できないものなのです。わたしたちもまた、この様な正しいメッセージ性をコピーして、ぬくぬくと言う必要はあります。しかし信じてはいけないのです。このような分かりやすさは、信じれば虚偽と言うべきものになってしまいます。



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芸術を理解しない人々 - 2013.01.25 Fri

ある寒い1月の朝、一人の男がワシントンD.C.の駅で座りながらバイオリンを弾き始めました。彼はバッハの曲を1時間程演奏しました。その時間帯は通勤ラッシュだったため、約1100人がその男の前を通りました。

3分後、ある中年の男はバイオリンを弾いている人がいると気づき、足を止めました。しかし、結局止まったのはほんの僅かな時間で、数秒後にはその場を離れました。

1分後、バイオリニストはやっとお金を稼ぐことができました。ある女性がケースに1ドル札を投げ入れましたが、彼女は止まることなく歩き続けました。

少しした後、壁に寄りかかって彼の音楽を聴く者が現れましたが、腕時計を見るとすぐに歩き始めました。会社に遅刻しそうだったのです。

一番彼の音楽が気になったのは、3歳の男の子でした。彼のお母さんは急いでいて、男の子の腕を強く引っ張りました。それでも男の子はバイオリニストを聞こうと足を止めます。お母さんは男の子の背中を強く押し、無理やり歩かせました。それでも男の子はずっと後ろのバイオリニストを見ながら去って行きました。他の子供も同様でしたが、親は全員例外なく止まることなくその場を去りました。

彼が演奏した一時間内で、足を止めて彼のバイオリンを聞いたのはたった6人でした。お金を入れてくれたのは20人程でしたが、止まった人は誰もいませんでした。稼いだお金はたったの32ドル。彼が演奏をやめ、駅が沈黙に包まれた時、気付いた人は誰一人いません。拍手はなく、このバイオリニストを認める人はいなかったのです。

バイオリニストの名前はジョシュア・ベル。彼は世界で最も才能のあるミュージシャンの一人です。彼はたった今、歴史に残る傑作を演奏したのです。それも3億円のバイオリンを使って。

彼の駅での演奏の二日前、彼のボストンでのコンサートのチケットは、一枚一万円するものの全て売り切れました。

これは実際にあった話です。ジョシュア・ベルが素性を明かさず行ったこの演奏は、人々の視覚・嗜好・優先順位を研究するための実験としてワシントン・ポスト紙によって行われました。私たちは本当に「美しさ」を理解しているのだろうか?それをちゃんと足を止めて味わっているのだろうか?予想していない状況でも、才能を感じ取ることはできるのだろうか?

一つ結論として言えるのは、

もし私達は世界で最も才能のあるミュージシャンが、歴史上一番の傑作を演奏してさえ気付かないのであれば、私達は他にもきっと多くの「美しいもの」を見過ごしているのではないか?

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二重制 - 2013.01.20 Sun

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「コンテンツ」というのは、あるものの「内容」のことです。
媒体やシステムではなくて《情報内容》ということです。

たとえば「近代美術とは何か?」という情報内容は、いままでも幾つも本が書かれてきています。一番手っ取り早い新書で、Amazonでさがすと、高階秀爾著『日本近代美術史論』(ちくま学芸文庫) 、土方定一著『日本の近代美術』(岩波文庫) はありますが、『日本』という文字がくっついてきてしまいます。


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イタリアのアルテ・ポーヴェラの作家:ボエッティ - 2012.10.03 Wed

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 イタリアのアルテ・ポーヴェラの作家:アリギエロ・ボエッティ(Alighiero Boetti)の大規模な回顧展がニューヨーク近代美術館で開かれています。

 これは1969年の作品。101の石で作られているようです。彦坂的に言うと、様態が低温プラズマの作品。良い作品だと思います。

 wiki的には、普通、アルテ・ポーヴェラは、「伝統的な美術の画材を放棄して、生の工業的な素材や自然の石や木などを、あまり加工せずに用いる傾向」であると言えますが、彦坂的な視点で言えば、時代の様態がポロックの時代のような気体状態から、もっと温度があがって低温プラズマになったことによる現象と言えます。

 物質の様態というのは、分かりやすい日本語で言えば、「状態」と言うことですが、固体、液体、気体と変化して、気体状態の時代の芸術が、ポロックだったのです。
 それがもっと温度が上がってくるとプラズマ状態になって、分子は電離して、陽イオンと電子に分かれて自由に運動するようになります。こういう風な状態になると、美術作品も、何かが電離して、分かれてしまって、自由に運動するようになります。この場合、何が分かれたのかはむずかしいのですが、この電離というか、分離の解釈によって、作品はさまざまなものに変わると思います。

 私自身も、このプラズマ状態をうまく説明はできませんが、私的な見解で言えば、芸術という認識と、社会的に承認される作品という形式や存在が分離してしまう。言い換えると、芸術というのは認識上の問題だけになってしまった。このアリギエロ・ボエッティの作品も、便宜的に「作品」と言いますが、厳密には《非—作品》と言うべきものなのです。つまり芸術ではありますが、伝統的な社会性としては作品とは言いにくいものになっている。つまり芸術と、作品存在とが分離してしまっている。上手い説明では無いかもしれませんが、彦坂はそのように認識しています。


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ゴンブリッジの『美術の物語』 - 2012.08.22 Wed

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芸術の秘密が、私なりに理解できたのです。結論を簡単に言うと、社会は芸術を通俗的に理解しているということです。

直接はE.H.ゴンブリッジの『美術の物語』というカラー図版のたくさんある大著なのですが、その内容は一般的で、通俗なのに驚いたのです。

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この日本版は2007年の発行ですが、本にはきちんと書いてあるのを見つけられませんでしたが、ゴンブリッジが1950年に書いた『The Story of Art』名著の翻訳版だと思います。


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サルサに見つけた《β》というリテラシー - 2012.07.18 Wed

《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》というリテラシーは、延長しているのではないか?

そこで《α》を想定すると、見つけられました。
何よりも自分自身のウッドペインティングの作品に見出すことが出来たのです。

ではさらに《β》を想定して、探したところ、サルサの音楽の中に見出すことが出来ました。今回は、その話を、eラーニングに少しですが書きます。
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ブロマガって何?

速水御舟 - 2012.07.13 Fri

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速水御舟の回顧展も昔に何回か、見ています。

非常にすぐれているのに、何か違和感のある画家です。

上中下でいうと、《特上》の画家です。
それは彼の魅力ではあります。


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上海の美術をめぐって - 2012.07.11 Wed

 いくつもの本質的な問題が、展開していて、焦点を結んできているので、整理しながら、ひとつずつ書いていきたいと思います。

 昨日栃原比比奈さんが上海から帰ってきました。7月6日に行って10日に帰ってきました。上海を見に行きたいと言う問題は、実はかなり前からあって、昨年の3.11後にも、上海に行くことが考えられたのですが、反対者がいてできませんでした。

 結論から言うと、私たちの気体分子は、上海展開に本気で取り組もうとしています。理由は2つあって、一つは美術市場の問題です。もう一つは、日本美術を理解するためです。

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《象徴界》が消えるということ - 2012.06.12 Tue

京都に行って帰ってきたのですが、ブログの更新が出来ずに失礼いたしました。

何があったわけではありませんが、それでも何か根本的な事が起きていて、私の人生においても大きな変化が起きて来ているように思います。

それが何であるかは書くのがむずかしいのですが、下記のような《象徴界》の喪失の事実も、実はたいした事ではないと言うことの認識の転換が起きていることが関係しているのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


白蓮さんから、下記のようなコメントをいただいた。

象徴界の声


いつも興味深く読ませていただいております。
唐突で申し訳ありませんが次の二人の声の中に象徴界はあるでしょうか?

http://www.youtube.com/watch?v=3hK1OAKnLzE

http://www.youtube.com/watch?v=_ORh8TKxsMU

前者は戦前に活躍したアメリカの歌手兼女優のジャネット・マクドナルド。
後者は現在の日本の女子高生です。


白蓮


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脳の多様性への道(1) - 2012.05.03 Thu

脳の多様性への道(1)


人類の歴史を見ると、脳の発達が大きいことが分かる。
150万年~250万年前に、人科の脳の平均サイズが400ccから900ccへと、2倍以上になっている。 
(サラエルトンの研究。オッペンハイマー著『人類の足跡10万年全史』頁32~33)

この脳の増大化の理由として考えられているのは、雑多なものを食べる雑食性と、複数の人間が柔軟に社会的協力していくという融通性であったという。

雑多なものに反応する《多様性》と、複数の人間が協力していく《融通性》が、人間の脳を大きくし、さらに構造化を進め、さらに今日の社会に現れている、違った脳構造を持つ、多様な人間存在を生み出してきているのです。




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風景写真/芸術とデザイン - 2012.04.14 Sat

村越ホンマ2
ホンマタカシ               村越 としや
《第6次元》デザイン写真        《第6次元》《真性の芸術



山方ホンマフ#12441;ロク#12441;540
ホンマタカシ               山方伸
《第6次元》デザイン写真    《超~50次元》《真性の芸術》        



糸崎公朗ホンマ540
ホンマタカシ               糸崎公朗
《第6次元》デザイン写真    《第1~50次元》《真性の芸術》





糸崎公朗さんは、今、TAPギャラリーで個展をやっています。

糸崎公朗さんの欲望は、TAPギャラリーを中心にして形成されている《村》の人々に認知されて、同じ村人の仲間に加わりたいと言うもののように、私からは見えていました。


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ヴェルーシュカ/《現実界》と《サントーム》(加筆2) - 2012.03.27 Tue

ヴェルーシュカ


ヴェルーシュカは1939年生まれのドイツ人。
'60年代を代表するスーパーモデルです。

スーパーモデルというのは、数百万ドルの報酬をとる有名モデルです。


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ヴェルーシュカは、スーパーモデルといっても、《第1次元 社会的理性領域》から《第50次元》の美人で、典型的な近代の上部構造に適応した美人です。

今日の眼で見ると、あまりに普通の美人で、凡庸で退屈な美人に見えますが、彦坂尚嘉の言語判定法では《現実界の美人》と分類されます。つまり近代美人の代表的な一人だったのです。

しかし《現実界》だけではなくて、《想像界》《象徴界》《現実界》の3界を持つ人でした。
ただ美しい《想像界》だけの人格をもつ普通のモデルではなかったのです。

昨年の2011年、歳をとって71歳になっても、ヴェルーシュカは、ファッションモデルとしてロンドンで行われたジャイルズの 春夏コレクションに登場したのです。

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《想像界》《象徴界》《現実界》という3界の精神を持つヴェルーシュカは、並のスーパーモデルではなかったということが、その後の展開でもしめされます。そのひとつは女優としての登場です。

イタリアの1960年代の代表的な映画監督ミケランジェロ・アントニオーニの映画『 Blow Up(邦題:欲望)』に、ヴェルーシュカは出演して話題になります。

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この1966年の映画を私は当時、封切りで映画館で見ています。しかし当時の私は未熟で、そんなには面白くなかったのです。

YouTube画像で今見直して言語判定法で芸術分析すると、《第1次元 社会的理性領域》から《第50次元》の典型的な近代のハイアートの枠組みの映画なのです。だからこそミケランジェロ・アントニオーニの映画は社会的な評価は高くて、最後の巨匠と呼ばれます。

しかし今日の眼で見ると、それだけではなくて《サントーム》性を持つ映画であることが特筆されるべきものとしてあります。つまり当時高い評価を得るだけの新しさが、《サントーム映画》という新しいリテラシー段階の表現としてあったのです。

この映画の音楽は、ハービー・ハンコックが担当しています。私はハービー・ハンコックは好きなのです。この1966年の映画の中ではまだおとなしくて、ここでも《第1次元 社会的理性領域》から《第50次元》の近代のハイアートのジャズに過ぎ無く聞こえますが、それを超えた新しさがあります。

それが《サントーム》性をもったジャズという性格です。そこことは、マイルス・デイヴィスのジャズにはなかったリテラシーの新次元なのです。ハービー・ハンコックは、マイルス・デイビス・クインテットのメンバーとして出てきますが、マイルス・デイヴィスの《現実界のジャズ》を超えて、《サントームのジャズ》を作り出すのです。この両者を聞き比べてください。


マイルス・デイビス・クインテット《第1次元 社会的理性領域》から《第50次元》の《現実界のジャズ》
ピアノを演奏しているのはハービー・ハンコック。


ハービー・ハンコック《第1次元 社会的理性領域》から《第50次元》の《サントームのジャズ》


今日では《サントーム芸術》は、数多くありますが、その出現の原点を追いかけているのですが、美術作品ではコスースが大きくあると思いますが、音楽では、もしかするとハービーハンコックの音楽であるのかもしれません。

現実界の芸術を高く評価する人からは、サントーム芸術というのは通俗に聞こえるかもしれません。その気持ちは分かりますが、サントーム芸術というのは、実は現実界の芸術の否定に成立するものなのです。

さて、この映画『 Blow Up(邦題:欲望)』の中ではヤードバーズの演奏が見られます。

ヤードバーズの「Stroll On」《第1次元 社会的理性領域》から《第50次元》の《現実界のロック》

ハービーハンコックの音楽が《サントーム》であるのに対して、ロックは、まだこの時には《現実界》に留まった遅れた音楽であったのです。ロックが《サントーム》というリテラシーに移行するのはレッドツッペリンからかもしれません。

レッドツッペリン 《超次元》~《第100次元》 サントームのロック

レッドツッペリンの音楽を単なる商業主義化ととらえるのは間違っています。《現実界》から《サントーム》へと、時代のリテラシーは動いていくのです。

レッドツッペリンの音楽はすばらしいものではあるのですが、しかし 《超次元》~《第100次元》までしかなくて、近代芸術のハイアートとローアートの両者を合わせた《超次元》~《第100次元》の枠組みの内側にあります。この枠組みの外に広がる《第101次元》~《第163万8400次元》は切り捨てられているのです。

しかもレッドツッペリンの音楽は芸術ではありません。実体的な音楽ですので、エンターテイメントであるのです。それだけではありません。これだけ豊かな音楽であるにもかかわらず、《原-音楽》性はありません。つまり《真性の音楽芸術》ではないのです。

この限界を超えるのが、次に出てくるブラックサバスなのです。
ロックのブラックサバスの前に、このバンドネームの原点である1963年のマリオ・バーヴァ監督ホラー映画の『ブラックサバス』を見てください。


映画『ブラックサバス』は、《第41~50次元》の《想像界》の映画。しかも固体(=前近代)の下の下の映画。

映画は《下の下》という悪趣味で、前近代の《想像界》の映画にすぎなくて、低俗なものです。しかしロックバンドのブラックサバスの音楽には《原-音楽》《原-芸術》性があります。しかも《サントーム芸術》なのです。そして様態は《プラズマ》であって、現代の音楽であったのです。


ブラックサバス 《超次元》~《第1634800次元》の音楽。《原-音楽》《原-芸術》性がある《真性の芸術》《現実界》のロック音楽ではなくて、《サントーム》のロック音楽である。プラズマ音楽
 
「ブラックサバス」と言うネーミングや、おオジー・オズボーンのヴォーカル、そしてトニー・アイオミのギターの重低音が指し示していったのは、《超次元》~《第163万4800次元》という人原精神の闇の深さであったのです。それは近代の啓蒙主義的な理性が切り捨てようとした人間の闇だったのです。この闇を直視することで、ブラックサバスにおいて、ロックは《真性の芸術》に回帰するのです。

「回帰」と言っているのは、ロックの元祖が誰であるかを考えないと出ない言葉なのですが、彦坂尚嘉のロック史観では、リトル・リチャードこそが、ロックの元祖の、少なくとも重要な一人なのです。



リトル・リチャード『Lucille』《超次元》~《第1634800次元》の音楽。《原-音楽》《原-芸術》性がある《真性の芸術》。《現実界》の音楽ではあるが、しかし《サントーム》の音楽ではない。気体音楽。

つまりリトル・リチャードと、ブラックサバスの関係は、
現実界のロック音楽から、サントームのロック音楽への移行だったのです。同時に気体芸術から、プラズマ芸術への様態変化であったのです。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
さて、Kさんから次のようなメールをいただいた。

To.彦坂先生

ご無沙汰しております。Kです。

ネットをうろうろしてましたら、
下記のブログでなんとも印象的な写真を見つけました。
http://plaza.rakuten.co.jp/ekatocato/3002

上記ブログの写真が私的には面白く感じました。

そこで彦坂先生が批評されたら、どうなるんだろうか?と
思いメールいたしました。


お忙しい中とは思いますが
可能でしたら批評してみていただくことは
できませんでしょうか?


以上、よろしくお願いいたします。

このKさんのリクエストの内容が、ヴェルーシュカはアーティストとしても登場した時代の作品なのです。

以下の情報出典:http://plaza.rakuten.co.jp/ekatocato/3002


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作品的にはヴェルーシュカの作品は《第8次元 信仰領域》のデザインです。しかも絶対零度の様態の、原始美術なのです。
日本には、岡本太郎の『重工業』以降、こうした作品はたくさんあって、こうした絶対零度のものを芸術であると錯誤するのです。
スーザンソンタッグの批評は読んでいませんが、私のヴェルーシュカに対する評価は低いものです。上中下という3段階の分類で言えば《下》の美術でしかないものであると思います。



【参考:芸術分析】


彦坂尚嘉責任の[ハービーハンコックのBlow UP]に対する言語判定法による芸術分析


アヴァンギャルドな音楽では無い。
伝統的な音楽でもない。
現代の音楽である

《想像界》の眼で《第1~50次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第1~50次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第1~50次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》、さらに《サントーム》がある4界の音楽。

ハービーハンコックの音楽は《サントーム》の音楽なのです!

上中下で言うと、特上の音楽。

《プラズマ》の様態の音楽。したがって絶対零度/固体/液体/の3つの様態は無い。

《シリアス音楽》である。
《気晴らし人格》では無い。

《ハイアート的音楽》であって、《ローアート的音楽》ではない。

シニフィエ的音楽と、シニフィアン的音楽の同時表示。

理性脳と、原始脳の両面のある音楽。

《透視的音楽=文明的な音楽》では無い。
《原始的音楽》ではない。

【A級的音楽】。

《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》という概念梯子がある。

《世間体の芸術》はある。

《原-総合芸術》《総合芸術》の概念がある。《反-総合芸術》・・・といった概念もある。


《原デザイン的音楽》《デザイン音楽》・・・の概念梯子が無い。

《原大衆音楽》《原イラストレーション音楽》《原シンボル的音楽》の概念梯子が無い。

《原-装飾音楽》《装飾音楽》・・・の概念梯子が無い。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

《原-工芸音楽》《工芸》が無い。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

《真性の人格》ではなくて、キッチュ人格である。

人格空間の意識の大きさが《近代国家》である。

鑑賞構造が無い人格。

情報量が100ある人格。
クリエイティヴでは無い。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

彦坂尚嘉責任の[ヴェルーシュカ]に対する言語判定法による芸術分析


アヴァンギャルドな美術である。
伝統的な美術ではない。
現代のアートである

《想像界》の眼で《第8次元》の《デザイン》
《象徴界》の眼で《第8次元》の《デザイン》
《現実界》の眼で《第8次元》の《デザイン》

《想像界》だけの美術。《象徴界》《現実界》《サントーム》は無い。

上中下で言うと、下の美術。

《絶対零度》の様態の美術。したがって固体/液体/気体/プラズマの3つの様態は無い。

《気晴らし美術》である。
《シリアス美術》では無い。

《ローアート》である。《ハイアート》では無い。

シニフィエ的美術である。シニフィアン的美術ではない。

理性脳の美術である。原始脳の美術ではない。

《原始的美術》である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
理性脳で作られた《原始的美術》である、というのは矛盾に見えるが、
そうした美術なのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

《透視的美術=文明的な美術》では無い。

【B級美術】。

《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》という概念梯子が無い。

《世間体の芸術》はある。

《原-総合芸術》《総合芸術》の概念が無い。《反-総合芸術》・・・といった概念も無い。


《原デザイン的美術》《デザイン美術》・・・の概念梯子がある。

《原大衆美術》《原イラストレーション美術》《原シンボル的美術》の概念梯子がある。

《原-装飾美術》《装飾美術》・・・の概念梯子がある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

《原-工芸美術》《工芸美術》がある。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

《真性の芸術》ではなくて、キッチュである。

美術空間の意識の大きさが《近代国家》である。

鑑賞構造が無い美術作品。

情報量が100ある美術。
クリエイティヴでは無い。

《想像界》について - 2012.01.28 Sat

《想像界》が基本か?

人間の心というのは、単に心というものではなくて、人間の脳の世界なのです。
人間は脳で外部を認識しているのですが、同時にそれは脳以外では認識することができないという限界の中に存在しているのです。

この当たり前のこと、つまり人間は脳を媒介しにして外部を認識しているだけなので、この媒介性の外部には出られない。このことを意識すると、手で触ろうが、眼で見ようが、結局は神経を介して刺激のパルスを受け取って判断しているのです。その判断には、神経を介しての刺激を受けて、その神経情報で外部を想像しているだけだと言えるのです。

神経情報で外部を想像しているだけですから、ですから普通の日常語で「現実」といっていることはすべてが、ラカンの用語で言うところの《想像界》に属しています。

《想像界》とは何なのか?

もともとはジャック・ラカンの用語です。彦坂尚嘉の用法は基本的にはラカンに沿っています。しかし彦坂尚嘉的に言えば、《想像界》というのは、脳によって外部を知覚することと、その知覚による判断の集積のすべてです。そこにはそうした判断の習慣化したものや、社会常識や、集団化された傾向なども入ります。これらすべてが《想像界》なので、広い領域であると言えます。

つまり人間は、《想像界》の内部に生まれるのです。
彦坂尚嘉の理論的な仮説では、この《想像界》は、テレビやコンピューターのモニターのようなものですが、
ラカンが指摘したのは、このモニターは鏡を見ているような鏡像の世界であるということです。

ここにラカンが指摘した重要な問題があります。

脳の中に映る神経情報のモニターには、自分自身の情報が十分に映らないのです。
巨大ロボットのガンダムのようなものに乗って、外部をモニタだけで見ていても、そこには肝心の自分自身の情報が不十分にしか映らない。

人間は他人の顔や姿は完全によく見えるのですが、自分自身は鏡に映さないと見えない。
鏡の像からの類推で、自分自身を想像の中で仮想としてイメージして、それを確かな自分自身として認識しようとしている。

つまり自己認識という基本そのものが鏡像に依拠しているために、
人間の脳神経の情報モニターというのは、こうした鏡像的な仮想性をもっている。
そのために妄想や、際限の疑心暗記などの心的世界の際限の無い闇が広がるのです。

この比喩を実際の自動車の運転に当てはめて考えてみても、
一台の小さな自動車を運転するだけでもフロントガラスから外部を見るだけでは足りなくて、バックミラーや2つのサイドミラーが必要です。つまり自動車の段階でも、外部を認識するためには鏡像が入ってくるのです。それでも死角はあります。

つまり神経からの情報をもって、脳が判断するのですが、その判断には想像による類推や偏見が入ってくる。今回の3.11東日本大震災でも、安全バイアスや、他人と一緒に行動しようとするバイアスなどの偏見による判断間違いによる死者が沢山出ています。つまり情報を正確に把握して、正しく認識し行動を起こせば、十分に津波から逃げる時間があったにもかかわらず、多くの人の脳が、正確な情報を把握しないでバイアス=偏見でゆがめてしまっているのです。このように、脳というのは、実に偏見や妄想、因習等々の間違った判断をするもので、それによって多くの人が現実に死んで滅亡するのです。

つまり脳というのは、入ってきた情報そのものの収集能力や情報の採取も不十分ですし、そしてそれを判断するのも、さまざまなバイアスやイデオロギー、思い込み、昔の記憶、無知、奇妙な欲望、恐れ、怯えなどに影響されて、判断を間違えるシステムなのです。その根底にあるのが、複数の心的な鏡が相互に映しあって超多層の世界をつくっているという《想像界》そのものの構造性にあるのです。

仏教が問題にした人間の苦というものは、人間の《想像界》が生み出す際限の無い妄想性と執着の世界でした。これをどのように克服するのか?

(以下は、ラカンが書いていない、彦坂のオリジナルの理論展開です。)

《象徴界》の出現

『美術の3万年』という本で、人類の初期の美術を言語判定法で見ていくと、
エジプト美術の成立前の原始美術は、《想像界》だけの美術で、《超次元》~《第6400次元》までの超多層性があります。なぜにこれほどの大きな数字が原始段階ででてくるのか?

脳内の心的な鏡は、4枚あって、相互に映し合っているので、まるで鏡地獄のような深さを持っているのです。
この4枚というのは、ラカンが言った《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》の出現を美術史の中で検証しようとしているので、4枚ということになっただけです。もっと多いのかもしれないとも思います。

エジプト時代になって、定着して農業をはじめて、書き言葉(初期は石に彫ったもの)が出現します。石に彫った言葉として法律ができて、(モーゼの十戒は、石に彫ってあることば)、ここで初めて人間の《象徴界》が出現するのです。

エジプト美術を見ると、《象徴界》は《第1次元 社会的理性領域》だけの単層です。
つまり《想像界》の《超次元》~《第6400次元》という超多層性は、《第1次元 社会的理性領域》だけに圧縮されて《象徴界》という新しい鏡面が出現したのです。この鏡面が写しているのは、脳が見ている普通の外部世界では無くて、石に彫られた文字の世界なのです。

脳が、《想像界》だけで無くて、2つに分裂して、《想像界》の外部を持ったと言うことが重要です。これによって、《想像界》の妄想や過剰な執着に対して、別の思考方法が入って、この《想像界》の暴走を抑圧するようになるのです。


この石に彫られた文字の世界だけを見て考える脳の活動が《象徴界》なのですが、しかし、石に彫られた文字は、従来通りの《想像界》の眼でも見えます。この2重性が重要なのです。


彦坂尚嘉の言語判定法での測定で見ていると、《想像界》だけしか無い人々がかなりの量います。10人中6人から8人です。この多くの人は《想像界》の眼だけで文字を見ています。

この《想像界》だけの眼で文字を見ている人は、小説は読めるのですが、批評や哲学は読めないか、読むのが好きでは無い。さらには読んでも理解できない様です。

哲学の本を漫画で読みたいという人がいましたが、それは意味の無いことです。漫画というのは《想像界》を基盤にして成立しているので、《象徴界》の哲学を、《想像界》に転写してしまうと、重要な中心は消えてしまうのです。『ソフィーの世界』という1991年に出版されたファンタジー小説がありますが、これは哲学を少年少女に教えようという意図で書かれていますが、同様に《想像界》に翻訳してしまった「まがい物」です。哲学を小説や漫画にするというのは、《想像界》の中につくった「まがい物」、偽物なのです。哲学をイメージやストーリーの《想像界》に還元しては駄目なのです。


しかし駄目でも良いからまがい物で良いから分かりたいという人々がいます。つまり《象徴界》を理解できない人が、これを《想像界》で翻訳して、まがい物で満足するという代表品文化が生まれるのです。その最初が大乗仏教の成立です。教典として代表的なのは法華経なのです。今日で言えば幸福の科学の大川隆法の著作はまさに、《象徴界》を《想像界》に映し出して、まがい物を作り出しているのです。

まがい物や、代用品では駄目なのか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

しかし石に彫った文字そのものが、人間の話し言葉を道具として外部に出したまがい物の言語なのです。この言語の偽物性を告発したのが『老子』でした。ものが名付けられる以前の存在を《玄雌》と呼び、これが名付けられることによって、その本質が失われ、「鬼神が泣いた」と書いています。

つまり人間の文明の構築というのは、道具を作り出すことなのですが、道具というのは人間の身体性を外に出すことなのです。
たぶん、一番初期の道具というのは《石器》です。《石器》によって、切る、叩く、などして他に直接作用するものから始まったのですが、これは動物を殺すのに使った人間の爪や歯という身体を、道具として外部に出したものと考えられます。

道具はしかしカラスやチンパンジーも使うので、もともと生物の本能の発達の中から出てきていると言えます。人間特有と言われるのは、道具を創るための道具という第2次道具という工作機械をつくったのが、人間の独自性と言われます。ですから石器段階でも、石器を創るための石器というものが有ったのでは無いかと思います。

道具をつくるための道具という2重性こそが、人間の文化の基本なのです。

言語でも同様な事が言えて、言葉を生み出すための言葉というものがあります。

さらには、芸術作品を生み出すための芸術作品というものがあります。

具体例としては、近代建築を作り出した一人であるコルビジェというのは、どういうふうにすれば近代建築が建つかというお手本を作る作業をしました。つまり近代建築を作るための近代建築という2重性が、コルビジェの建築であったのです。

この事は、モダンアートの印象派、キュビズム、未来派、ダダイズム等々にしても、皆同様で、どうしたら印象派の絵画が作れるか、どうしたらダダイズムの美術がつくれるか、というノウハウのハウツー本のような歴史が、モダンアートの歴史であったのです。

閑話休題。話を石器に戻します。しかし彦坂尚嘉の言語判定法ですと、この石器というものが、《想像界》だけの制作物であると判定されます。彦坂尚嘉の言語判定法では、原始時代のあらゆる制作物のは《想像界》の産物であるという特徴があるのです。

そこで《象徴界》が外化するのです。この石に彫った言葉というとロゼッタストーンなどが有名ですが、石に彫った言葉の存在性と、巨石文化や、後のピラミッドの建設、さらにはローマ帝国のローマの都市や建築と連続しているものなのです。文字はこうしたローマ帝国の建築に彫られていて、そこには大文字しか無いのです。小文字というのは、文字が紙に書かれるようになってからなのです。つまり書き文字とこうした巨大な石の建築物は深い関係があって、書き文字のこうした人工環境の構築を理解しない人は、《象徴界》が理解できないのです。

《象徴界》の言語というのは、言葉による建築なのです。この場合、建築という意味は、自然では無い人工環境という意味で、それはイタリアなどに見られる都市国家というものです。つまり建築や《象徴界》の言語そのものが、つまり自然環境の代用品なのであり、人工的なまがい物なのです。しかしそのまがい物が、人間の文明的な進化へと展開していることが重要です。

そのまがい物としての《象徴界》を、再度、《想像界》に押し戻して、《象徴界》のまがい物を《想像界》で作り直すというのは、実は退化ということなのです。つまりまがい物には、文明の進化としてのまがい物=道具1と、退化としてのまがい物=道具2があるのです。両方ともまがい物であり、偽物ですから、まがい物を創ることが悪とは言えません。しかも退化としてのまがい物というのは、既知の中に差異回収することなので、安心できるし、多くの人が歓迎するので、良いこととして評価される傾向が強いのです。特に後ろを向いている社会になってしまった日本には、この傾向が強くあります。


つまり理論的な文章を読むためには、石に彫られた文字を、きちんと読んでいって、この石に彫られた文字が、実はエジプト文明をつくっていくと言うこと。今日でも、文字が文明を創っていくことを理解する人々が、《象徴界》の精神を持っているのです。それだから《象徴界》の精神のある人は、本を読むことで、書き文字を介して世界を理解することを重要だと知っている人です。


それに対して《想像界》だけの人は、直に現実世界に接触していることが、重要な人々です。それこそ、町歩きしたり、フィールドワークを終始する人たちです。
もともと原始社会では、《想像界》だけの人間だけがいたので、《想像界》だけの人というのは今日の野蛮人なのです。

《象徴界》の人々が、人間の文明の初期に少人数ですが現れるのですが、そのすべてでは無いでしょうが、一つのグループが集団が小乗仏教(上座部仏教)です。ここでは戒律遵守が主張されるのですが、やや乱暴に言えば、つまり石に彫られた戒律を重視することで社会を形成しようとする官僚集団が、《象徴界》の実態として生まれるのです。わかりやすく言えば、文字だけを読んで、現実を判断する人々です。つまり現実を見ても判断ができなくて、文字を見て初めて分かる。こうした人々が現実に存在しています。つまり現実の代用物である文字だけになってしまった人々が、文字にとらわれて集団で生きるようになったのです。

文字であることだけで閉じると、文字だから勝手に書けることがあります。その書けることで暴走していくと、書いたという文字だけのバーチャル世界が、逆に現実を新たにとらえるきっかけになる。これが中世の神学であるのです。この文字だけの世界を読めない人がいると言うことは書きましたが、それは詩として文字を読んでいないからです。詩といっても谷川俊太郎のような《第3次元 コミュニケーション領域》の分かりやすいものでは無くて、難解な現代詩です。現代詩の面白さは、文字で書けることの極限を乗り越えた執筆だからです。文字だけだから可能な世界。それが《象徴界》の世界であります。

こうして学問の名にかこつけて、文字だけに溺れていって、現実を直視できない「おたく」が多く出現したのが仏教僧の世界でした。その文字馬鹿を否定したのが、禅宗だったのです。不立文字を主張する。つまり書き文字を否定し、文字を破壊する。教典を否定し、学問僧を否定し、頭を殴る。谷底に高僧を蹴落とす。こういう否定によって出現したのが《現実界》であったのです。

つまり《現実界》というのは、日常用語の「現実」という意味では無くて、書き文字という聖書や仏教経典を書いてきた文字を否定して出現するものです。
書き文字の否定という意味では、数学に基礎を置いて、数式で世界を対象化しようとして近代自然物理学が出現して、《現実界》が出現するのです。近代科学の基本は、こうして数学に還元された《現実界》の展開された領域でした。美術もまた《科学美術》《数学美術》が出現してきます。しかしこれらは、必ずしも《現実界》の美術では無かったのです。

《科学美術》としては、葛飾北斎、クールベ、モネ、セザンヌ、ゴッホ、未来派、ジャスパー・ジョーンズ
《数学美術》としてはスーラー、マレーヴィチ、モンドリアン、ジャッド、ジャスパー・ジョーンズ、セラ、フランク・ステラの「ブラック・ペインティング」、ロバート・マンゴールド
《情報美術》としてはデュシャン、コスース、シンディ・シャーマン、

スーラーは《想像界》の美術。

葛飾北斎、、クールベ、モネ、セザンヌ、ゴッホ、未来派は、モンドリアン、マレーヴィチ、コスース、シンディ・シャーマン、ジャッドは《象徴界》の美術。

デュシャン、ジャスパー・ジョーンズ、セラ、フランク・ステラの「ブラック・ペインティング」、ロバート・マンゴールドは《現実界》の美術。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
さて、このタイトルは《想像界》についてなので、《想像界》の話でまとめます。

フランク・ステラは、ブラック・ペインティングで登場しますが、これは数学美術で、しかも《現実界》の美術でした。
しかしその後レリーフに展開して、装飾美術に退化します。それは同時に《想像界》の美術への退化であったのです。
今日どれほど評判になろうとも、装飾美術への退化や、《想像界》の美術への退化は駄目なのです。

そういう中で、議論は宗達や、フリップ・タフなどの装飾の肯定と否定の同時表示をもった作品をめぐる評価の問題になりますが、それを、私は『3・11万葉集』の本で書きました。まあ、装飾の問題は難しいです。《想像界》も、錯綜しているので、むずかしいのです。

月岡芳年 - 2011.12.22 Thu

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月岡芳年

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月岡芳年

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月岡芳年

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月岡芳年

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月岡芳年

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月岡芳年

 多くの人が見て不愉快な気持ちになる死の絵画を描くというのは、どういうことなのか?
  
 美術というのは、2種類あって、ひとつは公共性のある美術です。

 公共美術というと、公衆便所のように思われるかもしれませんが、美術そのものはアルタミラの壁画もアスカの地上絵も、公共性を持った美術であり、エジプト美術にしても、ギリシア美術にしても、日本の平安時代の絵巻物も、公共性のある美術です。ですから、キリスト教の架刑図も、餓鬼草紙も、地獄草紙も、実は不快な絵画ではありますが、それらはキリスト教や仏教に深く関わって公共性があるのです。

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マティアス・グリューネヴァルト イーゼンハイム祭壇画

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地獄草紙

餓鬼草紙
餓鬼草紙


美術のもう一つは個人の趣味なのですが、趣味で描く悪趣味絵画というものがあります。確かに悪趣味の人はいて、やたらに猟奇殺人に興味をもって、その手の本を集めている若い女性の日本画家も知っています。男にもいて、東電OL殺人事件に興味をもって、読んでいた人を知っています。ネクロフィリア(死体愛好症)の美術家たちというのも、昔の友人にはいました。


彦坂尚嘉の言語判定法でみると、たとえば、月岡芳年の「無残絵」には《公共性》が無いのです。

ところが月岡芳年と同時代の落合芳幾の「無残絵」には、《公共性》があるのです。しかし、今日の観客には面白くないかもしれません。この面白くない浮世絵を、私は評価します。

その話は、次回に・・・

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ジョニー・サヴィルとフランシス・ベーコン、さらに月岡芳年と落合芳幾について書かなければならないと感じるのです。

大げさな話なのですが、ベーコンはすばらしいと思うが、サヴィルは、フェニミズムで評価するにしても、イラストの作家に過ぎなくて、わたしは芸術としてつまらないと思う。

同様に、社会的な評価なら、たとえば月岡芳年の方が有名だが、私は落合芳幾ほうが良い作家だと思う。

ピーター・ビアード - 2011.11.22 Tue

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彦坂尚嘉責任による[ ピーター・ビアード]
言語判定法による芸術分析


アヴァンギャルド美術である。
伝統美術ではない。
現代アートである。

《想像界》の眼で《第801~1600次元 》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第801~1600次元 》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第801~1600次元 》の《真性の芸術》
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

《現実界》だけの芸術。《想像界》《象徴界》《サントーム》の重層的な表現は無い。
絶対零度だけの芸術。したがって固体/液体/気体/プラズマの4様態は無い。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

《シリアス・アート》である。《気晴らしアート》では無い。
《ハイアート》である。《ローアート》では無い。
シニフィアンとシニフィエの同時表示。つまりシーニュである表現。
理性脳と原始脳性の同時表示。
《透視画面》オプティカルイリュージョンの作品【A級美術】。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》《形骸》《炎上》《崩壊》の全概念梯子が有る。

《原デザイン》《デザイン》・・・の全概念梯子が無い。

《原大衆芸術》《原イラストレーション》《原シンボル》の概念梯子が無い。

《原-装飾》が無い。
《原-工芸》性が無い。

芸術であって、キッチュでは無い。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
作品空間の意識の大きさが《孤児》である。

鑑賞構造が《驚愕》だけである。したがって《愛玩》《対話》《信仰》《瞑想》の鑑賞構造は無い。

情報量が200である。
クリエイティヴである。

ロッソ・フィオレンティーノ - 2011.11.22 Tue

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彦坂尚嘉責任の[ ロッソ・フィオレンティーノ]の言語判定法による芸術分析

アヴァンギャルドアートでは無い。
伝統的芸術である。
現代アートではない。

《想像界》の眼で《超次元》~《第51200次元》の《真性の芸術》
《想像界》の眼で《超次元》~《第51200次元》の《真性の芸術》
《想像界》の眼で《超次元》~《第51200次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界がある多層的芸術。ただし《サントーム》はない。
固体/絶対零度の2つの様態の芸術。したがってプラズマ/気体/液体の3つの様態は無い。

《シリアスアート》である。《気晴らしアート》では無い。
《ハイアート》である。《ローアート》が無い。

シニフィエとシニフィアンの両面をもつ芸術。

理性脳と原始脳性の両面のある芸術。

《透視的芸術=文明的な芸術》
オプティカルイリュージョン的芸術
【A級芸術】。

《原芸術》《芸術》の2つの芸術概念がある。ただし《反芸術》《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》《形骸》《炎上》《崩壊》の概念梯子がない。

《原-総合芸術》《総合芸術》の概念がある。ただし《反-総合芸術》・・・といった概念は無い。


《原デザイン的芸術》《デザイン芸術》・・・の概念梯子が無い。

《原大衆芸術》《原イラストレーション》《原シンボル》の概念梯子が無い。

《原-装飾》《装飾》・・・の概念梯子が無い。。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
これだけ過剰な装飾性があるように見えて、彦坂尚嘉の言語判定法では、装飾性は無い。この過剰さは、総合芸術性と、《超次元》~《第51200次元》まであることのから生まれているのだろうか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
《原-工芸》《工芸》が無い。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
これだけ過剰な工芸性があるように見えて、彦坂尚嘉の言語判定法では、工芸性は無い。工芸というものの定義によるかもしれないが、この過剰さは、総合芸術性と、《超次元》~《第51200次元》まであることのから生まれていて、明治初期の日本のヨーロッパ輸出用の工芸品の引きつったような過剰さとは違うのだろう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

《真性の芸術》であって、キッチュではない。

芸術空間の意識の大きさが《宇宙外》である。

鑑賞構造がある芸術。《愛玩》《対話》《驚愕》《瞑想》《信仰》《総合》のすべてがある

情報量が1000である。
クリエイティヴである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
情報量が1000あるものを初めて見つけた。


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固体の美術で良いのか?/Aさんの芸術分析最終回 - 2011.11.17 Thu

画像がつきませんが、eラーニングの内容をご紹介します。
「ブロマガ前書き」には画像がつけられないシステムなのです。


文章だけでも見ていただくと詳細な分析であることが分かります。

あくまでも《厳密な学問としての芸術》をめざしています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【Aさんの芸術分析の続き】

固体の美術である。絶対零度、液体、気体、プラズマの様態が無い。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Aさんの絵画は、固体の絵画なのです。
ここに古さの原因があります。
固体性がもつ前近代性を、芸術と思っていらっしゃるのかもしれません。
この固体性も、人格構造に連動しているものなので、そう簡単には変化できません。
つまり様態の問題なので、様態変化は人格の様態も変化しないと、本当は達成できないのです。

しかしこれもPhotshopの彩度を操作することで、可視化は出来ます。
彩度を+31上げると液体になります。
+51で気体
+71アップでプラズマになりました。
+91アップで、絶対零度になりました。

反対にやってみます。?100で絶対零度になりますが、
途中は、なにものでもありません。言語判定法での様態判定に対応しないのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



【Aさんの芸術分析の続き】

《シリアス・アート》である。《気晴らしアート》では無い。
《ハイアート》である。《ローアート》では無い。
シニフィアンとシニフィエの同時表示。つまりシーニュである表現。
理性脳と原始脳性の同時表示。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
上記については、問題は見つかりません。
良いと思います。
しかしここで《ハイアート》と出るのですが、次の分析では《ローアート》と出ます。つまり主題面から見ると《ハイアート》なのですが、純粋の絵画構造的には「ペンキ絵」の構造をしています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【Aさんの芸術分析の続き】

《原始平面》ペンキ絵の作品【B級美術】。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この原始平面性/ペンキ絵性というのは、一つは絵画を描く技術の問題なのですが、それは人格の構造と深く連動しています。つまり《第6次元 自明性領域》に生きる人格の人は、外部世界に対して「自然的な態度」で見ていて、それ故にペンキ絵になります。
つまり外部を一度『鏡』に写して見る視点をもって生きないと、《透視画面》の絵画を描くことができません。

《第6次元 自明性領域》の人格は、倒錯すると《第8次元 信仰領域》になります。

つまり絵画構造と、人格構造は連動していますので、
これを克服するのは、なかなか難しいのです。しかしピカソもゴッホも、初期はペンキ絵で《第8次元 信仰領域》でした。それが学習の中で変化して偉大な絵画を描くようになったのです。だから美術はおもしろいのですが、日本の場合には、そういう偉大さへのチャレンジ精神が無くなってしまったのです。

芸大に入っている画家の多くは、受験デッサンや受験の油絵では《透視画面》の絵画が描けますが、卒業して制作する作品では、ほとんどの画家が《原始平面》のペンキ絵で《第8次元 信仰領域》になってしまいます。
これも、社会を生きる人格に連動しているが故の問題なので、簡単に解決する方法はないようには見えます。日本社会が腐ってきていて、滅びるという傾向の問題であるとも言えます。

日本の現代アート界は中世に回帰してしまっていると思います。中世はやはり、面白くはないですね。何よりも知的では無い。

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【Aさんの芸術分析の続き】

《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》《形骸》《炎上》《崩壊》の全概念梯子が無い。

《原デザイン》《デザイン》《反デザイン》《非デザイン》《無デザイン》《世間体のアート》《形骸》《炎上》《崩壊》・・・の全概念梯子がある。

《原大衆芸術》《原イラストレーション》《原シンボル》の概念梯子が無い。
《原-装飾》が無い。
《原-工芸》性が無い。

キッチュであって、芸術では無い。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

美術の下部構造というのは、《装飾》《工芸》《イラスト》の欲望です。
この下部構造の欲望のままに制作されている作品は、膨大にあります。
それらはすべて《想像界》の美術です。
同時に原始的な領域なのです。
基本的に呪術的な領域の表現です。
私はそれをいけないといっているのではありません。

この下部構造を否定して、エジプト美術の領域が登場します。
この否定というのは《象徴界》の成立という形で生まれているのです。
それは《第1次元 社会的理性領域》の単層性として現れます。
芸術というのは、このエジプト美術が基本であると思います。

エジプト美術を彦坂尚嘉の言語判定法で分析すると、《装飾》《工芸》《イラスト》性はありません。
もちろんエジプト美術にも、装飾性や工芸性、そしてイラスト性があるのですが、
表現の基盤が《象徴界》に移ることで、これらにレイヤーがかかっているのです。

さらに《象徴界》を否定して、《現実界》が出現します。
時代的な確定は、『美術の三万年』という本でやってみましたが、一つは鎌倉時代の運慶の彫刻が早い例で、ここには《想像界》《象徴界》《現実界》の3界が出現しています。

ヨーロッパですと、イタリアルネッサンスの絵画です。同じ時代でもヒエロニムス・ボス(ボッシュ)の絵は、《想像界》《象徴界》だけで、《現実界》はありません。

すでに述べたようにAさんの作品は、《現実界》の美術なのです。
その意味では、現代美術であると言えると思います。

今日の芸術の問題としては、《現実界》をさらに否定すると出現する《サントーム》の問題なのです。
ジェフ・クーンズの作品には《サントーム》があります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【Aさんの芸術分析の続き】

作品空間の意識の大きさが《孤児》である。
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作品の大きさを言語判定法でみると、孤児でした。
この孤児性が、一番大きな特徴ではないでしょうか。
死や事故の主題を選ばれている理由も、この孤児性にあると思えます。

これもPhotshopの画像操作で、変化させてみます。
PhotshopのCS2以降についているフィルター/変形/レンズ補正を使って、
「水平方向の遠近法」で操作してみます。
先ずオリジナルの《孤児》です。
+11で、《群れ》
+21《村》
+31《近代国家》
+41《グローバル》
+51《地球のマグマ》
+61《宇宙》
+71《宇宙外》

あくまでも画像操作だけなので、その限界は大きくあります。
人格構造を、空間的に拡大していくことは、人格上の成長と大きく関わっていくことなので、なかなか難しい事です。

ただ《孤児》というのは、一つの才能で、なかなかあるものではありません。
有名な作家では森山大道さんの写真が《孤児》です。
ですからAさんは、《孤児》のままで良いのだと思います。
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【Aさんの芸術分析の続き】

鑑賞構造が全くない。《愛玩》《対話》《信仰》《瞑想》《驚愕》のどれもない。
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作品がデザインであるので、鑑賞構造が生まれないのです。


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【Aさんの芸術分析の続き】

情報量が200である。
クリエイティヴである。
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情報量が200あるのはすばらしいことです。
高く評価できます。
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ブロマガって何?

Aさんの個人的リクエストによる芸術分析 - 2011.11.13 Sun

Aさんからのリクエストがあったので、
作品の芸術分析と、それに関連した話を書きます。

芸術分析というのは、フロイト/ラカンの精神分析をふまえたのもので、
アーティストにとっての精神分析=批評であると言えます。

人間は自分自身の顔を直接には見ることが出来ないのですが、それはアーティストの作品についても言えます。アーティストは自分で作品をつくっているにもかかわらず、その作品を客観的には理解できません。そこで批評=芸術分析が必要なのです。

しかし楽しみで制作しているアーティストにとっては、作品は趣味です。趣味に批評=芸術分析は必要では無いのです。プロのアーティストにだけに批評=芸術分析が必要です。

しかしだからといって、彦坂尚嘉の言う芸術分析と、日本社会の現代美術界の価値基準はずいぶんと違うものです。日本の常識は世界の非常識と言いますが、日本社会は1940年代にファシズム化することによって、自閉した価値観の世界になっているので、日本には日本主義に同化した表現が求められています。

ですから日本社会において評価を受けたい人に、彦坂尚嘉の芸術分析がどこまで役に立つかは、疑問かもしれません。芸術分析自体は、精神分析同様に疑似科学であるという批判を受けるかもしれませんが、彦坂尚嘉としてはフッサールを尊敬してきているので《厳密な学問としての芸術》をめざしています。ですので、日本主義の世間体アートもまた芸術分析の大きなテーマですので、これへの適応の問題も視野には入れていますので、一方的に日本主義世間体アートを排除するものではありません。日本主義世間体アートの基本は、フッサールの言う《自然的な態度》による美術なのです。
 つまり反省的な哲学的な視野による芸術を,日本主義は追究していないのです。

つまりアーティストというのは、ある種の精神の病にかかっていて、それだからこそアーティストなのです。
人類が作り出したエジプト文明以来の文明というものは、識字革命による疎外であります。

農業革命による疎外1・・・《象徴界》・・・言語/宗教・宗教哲学。
つづいて産業革命による疎外2・・・《現実界》・・・数学/単純系科学・自然物理科学
情報革命による疎外3・・・《サントーム》・・・コンピューター/複雑系科学・情報科学

現在の日本の現代アートは、原始状態に回帰して、《想像界》・・・工芸、イラストレーション、装飾性に基盤を置く原始美術を強く肯定しているように見えます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
《象徴界》《現実界》《サントーム》の疎外に、さらに各社会による疎外が重なります。日本社会は日本主義による非常に強力な排除システムをもった柔軟性と多様性を欠いたシステムですので、この排除によって苦しんでいるアーティストもたくさんおられると思います。彦坂尚嘉が、溺れる者は藁をもつかむ、という意味での藁として役にたつとしたら、それは日本の現代アートの《第6次元 自明性領域》の強力な単層排除システムにはじき飛ばされている《超次元》のアーティストたちに対する救済としてです。

現実に日本現代アートの評価される作家になることには、まったく役に立つとは思いませんが、《真性の芸術》との関係性においては、苦しみを減らす役に立つことは出来ます。それは時間つぶしと、気晴らし程度には役にたつものです。人間が生きていくのはたいへんですから、気晴らしもまた重要なのです。

この文明と社会からの疎外との確執による本来性の復権を作品上で行うのが芸術であるのです。
それ故、アーティストというのは、深く病み、そして苦しむ中から表現を成し遂げていきます。

精神分析と同様に、芸術分析をうけることで、事実を対象化し、意識化することで、固着から相対的に自由になって、より高度の表現に成長していくことのきっかけを提示することが芸術分析の一つの臨床的な目的であります。

アーティストというものは、芸術そのものが分からないことからの苦しみも深いのです。ですから、その面では彦坂尚嘉の芸術分析は、一つの正面からの提示として役に立つはずであると思います。

個人教授としての芸術分析を行います。

また、スカイプによる直接の相談にも、芸術分析後には応じます。

しかし、あくまでも精神分析同様の限界はあって、完全な治癒などというものはあり得ません。むしろ自分自身のままに生きて制作していくことの補助として役立つはず程度のものです。

完全な救済を断念することこそが、救済の道なのです。むしろ今日は《サントーム》への還元という新しい次元と、そこでのミッションの追及に可能性を見いだしますので、その辺のお話を伝導できればと思います。

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ブロマガって何?

マティスの「生きる喜び」/バーンズファンデイション所蔵 - 2011.09.11 Sun

Matisse Le bonheur de vivre 1905-190
Henri Matisse,「生きる喜び/ Le bonheur de vivre」 (1905-06)

これは、バンズファンデーション所蔵のマティスの大傑作作品です。その後に描かれるダンスなどの原型が描かれていて、マティス芸術のエッセンスがあります。

彦坂尚嘉責任による[マティスの「生きる喜び」]の芸術分析

《想像界》の眼で《超次元》~《第6400次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元》~《第6400次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《超次元》~《第6400次元》の《真性の芸術》


《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》の4界をもつ重層的な表現。
プラズマ/気体/液体/固体/絶対零度の5様態をもつ多層的な表現


《シリアス・アート》《気晴らしアート》の同時表示。
《ハイアート》と《ローアート》の同時表示。
シニフィアンとシニフィエの同時表示。
理性脳と原始脳の同時表示

《透視絵画》オプティカル・イリュージョン【A級美術】

《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》
《形骸》《炎上》《崩壊》のすべてが有る。

《原イラストレーション》《原工芸》《原装飾》は無い。

貴族の芸術と、大衆の芸術の同時表示。

作品空間の意識の大きさが《宇宙》である。
鑑賞構造があって、それは《瞑想》《信仰》である。





マティスのLa Tristesse du roi (Sorrows of the King), 1952  - 2011.09.11 Sun

マティスTRISTEL
マティスのLa Tristesse du roi (Sorrows of the King), 1952


この作品は、英語の画像検索で「Henri Matisse」と打ち込んだ時に、たまたまかもしれませんが最初に出て来た作品画像です。わたしもこの作品がマティスの代表作とは思いませんが、これを取り上げて芸術分析をしておきます。

何故かというと、「赤」について語ったYouTube画像で、私がマティスについて辛口で語ったからです。


彦坂尚嘉責任による[ La Tristesse du roi (Sorrows of the King), 1952 ]の芸術分析

《想像界》の眼で《第6次元 自然領域》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第6次元 自然領域》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第6次元 自然領域》の《真性の芸術》

つまり『アートの格付け』としてはすぐれた作品ではない。


《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現。ただし《サントーム》は無い。
液体/固体/絶対零度の3様態をもつ多層的な表現。ただし気体/プラズマの様態は無い。
つまり近代美術の枠内にある。


《シリアス・アート》《気晴らしアート》の同時表示。
《ハイアート》と《ローアート》の同時表示。
シニフィアンとシニフィエの同時表示。
理性脳と原始脳の同時表示

上記4つの同時表示は、すぐれていて、モダンアートの範囲を超えていると思う。

《透視美術》オプティカル・イリュージョン【A級美術】

《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》
《形骸》《炎上》《崩壊》のすべてが有る。

貴族の芸術と、大衆の芸術の同時表示。

作品空間の意識の大きさが《近代国家》である。
鑑賞構造があって、それは《愛玩》である。


この作品は、凡庸なマティスを代表するかの様な《第6次元 自然領域》の作品で、しかも愛玩の鑑賞構造があるので、多くの人に愛されるものですが、芸術的には傑出してすぐれているというものではありません。

とは言っても、装飾でも、イラストでも、工芸でもなくて、芸術になっています。

だからといって、この作品をもって、マティスを天才というものではないのです。

しかし、近代社会の大衆にとって、この程度の《第6次元 自然領域》の愛玩美術が、もっとも適切な美術であると言えるのでしょう。少なくとも大衆的には、こうした美術こそが作られなければならないのです。その意味でのお手本作品とは言えるかもしれません。


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New HIKOSAKA 彦坂尚嘉

Author:New HIKOSAKA 彦坂尚嘉
彦坂 尚嘉(ひこさか なおよし、1946年6月26日 - )は、 美術家。立教大学大学院特任教授。日本建築学会会員。日本ラカン協会会員。気体分子ギャラリーを主催。

【著書/出版】『反覆/新興芸術の位相』(74年、田畑書店)、『死に対抗する力』(91年、ギャラリーKURANUKI)、『リノメランコリア』(94年、岡部版画工房)、共著『リベーションの現場』(05年、彰国社)、共著『メディアと精神科医』(05年、批評社)。共著編『皇居美術館空想』(08年9月朝日新聞社)。『彦坂尚嘉のエクリチュール』(08年、三和書籍)、共著『3・11万葉集 復活の塔』(2012年、彩流社)

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