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2011-09

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糸崎公朗への再批評(大幅加筆7画像追加5校正8)と、無償の行為と有料ブロマガ - 2011.09.17 Sat

糸崎公朗への再批評と、無償の行為と有料ブロマガ

私自身は、ニーチェが好きな人です。ニーチェの哲学は、好きな人と嫌いな人に割れるという傾向が強いものです。ニーチェは「贈与の徳」ということを言って、無償の行為を評価しましたが、しかし多くの人は、無償の行為を嫌うのですね。私の廻りでボランティアに強い拒否反応を示したのはM7のやのまきさんや、アーティストの佐々木薫さんでした。ボランティア活動というものを嫌悪しているから、やのまきさんや佐々木薫さんが商売人であるというかというと、決してそうでは無くて、商売人としても下手な人と言う印象があります。何かを根本の所で誤解している人たちで、むしろエゴイズムの強い子供のような無垢な人たちという印象なのです。普通は無垢な子供はすばらしいという価値観が信じられていますが、実際の子供は万能感の強い自己中心主義の強欲の嫌なものなのであって、子供の無垢というのは、野蛮なものが持つエゴイズムの固まりの醜悪さに過ぎないのです。最近の女性は、この手の無垢な人が増えているのです。

下の

クリス・アンダーソンの『フリー』という本が世界的なベストセラーになりましたが、その内容は「なぜ、一番人気のあるコンテンツを有料にしてはいけないのか?なぜ、ビット経済では95パーセントをタダにしてもビジネスが可能なのか?あなたがどの業界にいようとも、“無料”との競争が待っている。それは可能性の問題ではなく、時間の問題だ。そのときあなたは、創造的にも破壊的にもなり得るこのフリーという過激な価格を味方につけることができるだろうか。」というものでした。この本は私は志田寿人にいただいて読みました。

さて、私は、実は無料で多くの美術展の企画をしてきています。この辺の経緯を前に書いているので、再録文させていただいて、こうした無償の行為の果てに、有料ブログで美術批評を書くという選択に至っているということをご理解いただければと思います。再録文は長いですが、読んでいただければと思います。その後で、批評は、美術作家を目指す人間には必要なものですが、それは有料のブロマガの方が良いのです。有料ブロマガを誰が読むと言って批判したのは糸崎公朗さんでしたから、だからこそ有料の方で、it君について書きたいと思います。

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無償と有償



私は、無償の奉仕で、

いろいろな活動をやって来ています。

1978年に村松画廊で、『原型と現象』展というのを、彦坂尚嘉企画でやりました。

さらに4回にわたる『ハッピーアート』展(1981年)、そして『かたちへかたちから』展(1982年)といった企画を、私は展開します。

アートマン展(Gアートギャラリー、1981年)、「グループY」展(村松画廊、1982年4月)、「グループY」展(村松画廊、1982年9月)、「グループY」展(村松画廊、1984年7月)は、私の企画では有りませんが、後ろにはいたのです。

Bゼミ出身の作家たちをメンバーにして、続けて打ち込んでいったのですが、これらの活動は無償の奉仕活動でした。

こうして一難早いニューウエーブのムーブメントを、私は作り出していきます。

余談ですが、Bゼミの故・小林昭夫所長は、極めて迷惑そうな顔で、これらの企画展を見に来ていました。つまりBゼミがお金を出したのでもないし、バックアップしてくれていたのでもないのです。Bゼミでの給料の範囲を超えた、こうした活動は、所長として迷惑であったのだという印象でした。美学校と違って、Bゼミは2代目に移行に失敗して閉校になりましたが、そういう未来の無さを、この時の彼の顔の鬱々とした表情に感じました。

『原型と現象』展では多木浩二氏に文章を書いてもらって、一緒に企画をやってる形をとっていますが、実質は彦坂尚嘉が全部作った美術展です。多木氏は、Bゼミに関してはクールで、故・小林昭夫氏の花園でしかなくて、彼を超えては継続する一般性を持っていない事を、私に指摘したことがあります。

『かたちへかたちから』展(1982年8月)では、企画・千葉茂夫というふうにクレジットされていて、彦坂尚嘉の名前は表には出ていませんが、実質的には彦坂尚嘉が全部の企画をして組織化して、千葉氏の冠をかぶった展覧会でした。具象表現の復権を仕掛けた企画展でありました。

日本でのニューウエーブを作り出す、一番早い組織的な動きを、彦坂尚嘉は無料奉仕で、仕掛けていったのです。このことを、坂上しのぶさんが、1980年というテーマで、インタビューしたのです。こうした活動で、私が報われた事は、ありませんでした。私の仕掛けは、結果としては失敗して行ったからです。しかし、長期的に見ると、時代の大きな変化を体験して行く訓練になったのです。作家は、自然性では、長時間は保たないのです。すぐに有頂天になり、そして自滅して行きます。

今、これらの体験の総決算として気体分子ギャラリーをやろうとしています。この企画に、こうした経験を流しこんで、小さくても持続的に緩やかに展開できる場を形成できればと思います。

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一番最初は、1969年の多摩美術大学のバリケードの中の造型作家同盟展だと思いますが、私はもともと企画屋で、その前にもいろいろと、無償の奉仕企画は、やっています。

1973年のピナール画廊での「アフェア & プラクティス」展は、かなり大規模ですが、今日は細部を書きませんが、これも企画料が無料奉仕です。

つづけて「70年代中葉期の転換点より10年/質を問う9人の仕事展1?3」(1983年ギャラリー手)も、企画:たにあらた とクレジットされていますが、企画して組織化したのは彦坂尚嘉です。
この美術展の出品メンバーを書いておきます。1、小清水漸、堀浩哉、辰野登恵子 2、北辻良央、
田窪恭治、向井美恵、3、彦坂尚嘉、松本陽子、狗巻賢二

もう一つ、1995年から、中高年アーティストを組織化する活動を、無料奉仕しています。

「モダニズム研究会」という読書会を始め、「水彩の網展シリーズ」、そして「中高年の回顧展シリーズ」、「中高年再制作シリーズ」を、展開しようとします。さらに流産した「再生構造展」を企画します(これについては、反覆という題のブログで書いています)。これらは、すべて失敗して行きます。中高年アーティストも、古い画廊も、限界を露呈してしまったのです。

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さて、ここで書こうとしているのは、そうした企画が、何故やられて、どのように終結していったかです。

まず、村松画廊でのこうした企画への参加は、私の労働に対しては、一銭もお金はもらっていません。すでに述べた様に無料奉仕なのです。

企画料といったものは、もらっていないのです。

完全な、タダ働きです。
交通費や電話代と言った必要経費ももらっていませんから、
自腹を切ってやっている企画だったのです。

INAXでの個展から、村松画廊での個展といった丸山直文の売り出しに関しても、INAXでのパンフレットの原稿料から、企画料、村松画廊での企画料も、一銭ももらっていないばかりか、経費は自腹を切っているのです。完全な無料奉仕です。

私のコレクターは、丸山氏の作品を買っています。しかし売り出しを含めて、一度も丸山さんから感謝の言葉も聞きませんし、小さな作品一つもらっていません。私は、純粋に、無償の行為をしたのです。

その辺は、マキイマサルファインアーツで、現在、企画をやっている白濱雅也さんなんかとは、決定的に違う事なのです。彼は企画料をもらっています。マキイマサルファインアーツは、その前には松永康さんが企画に関わっておられましたが、彼も企画料や経費はもらっていたはずです。そういうことは、もちろん正当な事なのですが、私のやり口は違っていたのです。

私の場合は、まったく、持ち出しのただ働きでやっているのです。

外から見たら分からない事ですが、
彦坂尚嘉の活動の活発さや多様性は、
無償の行為だからこそ、
企画を取り、入り込めると言うところにあったのです。
もともと宗教性のある人で、無料奉仕というのには、抵抗が無いのです。

タダならば、いろいろやらせてもらえるのです。
画廊にとっても、これほどに便利な事は無いからです。

東京画廊でも企画をしています。ここでも条件的には同じで、企画料も経費も、いっさい請求していません。無料奉仕です。

私の場合、それは美術や、美術家を認識していく為の、ある種の探求活動であって、職業的な営利活動ではなかったのです。

リスボン建築トリエンナーレの話の時も、最初の企画は、建築家2組と彦坂尚嘉を、五十嵐太郎さんが選んでくれたのですが、予算が付いていない事が分かり、建築家2組は降りてしまったのです。建築家は、予算の無い仕事はしないのです。

五十嵐さんも、やる気を無くしかけていて、私にどうするのか聞いて来たので、「私はやりたい、予算が無くても、持ち出しでもやりたい」と、言ったのです。私というひとは、持ち出しでも、やりたいのです。無料奉仕というのが、好きであると言えます。それで、陣容が再度組み直しになって、実現して行きます。予算も国際交流基金が付けてくれる事になったのです。

先日の金沢の新堀学さんの、個人住宅も、私の関係で数千万万円の家が建ちましたが、私にマージンが入っている訳では、全くありません。それを見に行く飛行機代も、私の自前です。そして施主へのお祝いも、私が出している。私はここでも、経費をもって無賃労働をしているだけなのです。

彦坂敏昭さんの最初の個展を、ハガキだけで評価して、京都まで見に行って、東京に呼んだ、そういう京都までの往復の新幹線代を含めた経費は、私持ちです。それでギャラリー手とか、タマダプロジェクトが、彦坂敏昭さんの作品を売って利益を上げているのですが、私は無償の行為として、一人のアーティストを発見したのです。

私のコレクターも、彦坂敏昭氏の作品を買っています。しかし彦坂敏昭さんから、小さな作品一つもらっていません。私は、純粋に、無償の行為をしているのです。

文章もそうですが、タダ原稿で、膨大な分量を書いています。


このブログの膨大な執筆が、タダ原稿で書かれているのと、それは良く似ています。

ここでの執筆は、無償の行為として書かれていますが、画廊での企画もまた、持ち出しまでしてやる無償の行為なのです。

現在やっているアートスタディーズの企画も同様であって、持ち出してやっている無賃の企画です。
ボランティアの活動なのです。

日本ラカン協会の幹事の仕事もそうですが、経費も出ない、無償のボランティア活動です。

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こういう話をすると、坂上しのぶさんは、「画廊企画を無償でやるのは良くない」と言います。

それはそうです。

しかし日本で美術活動をやって行く時に、この日本という社会の信じている迷信の外に出る為には、無償の行為でしか、可能ではないと思っていたのです。日本には限りませんが社会というのは、沢山の迷信を信じて動いています。それは間違った認識を信じている、愚行なのです。そのことについては、
スチュアート・A. ヴァイスの『人はなぜ迷信を信じるのか―思いこみの心理学』(朝日新聞社)に、書かれています。これは名著です。

私は1946年生まれで、太平洋戦争で敗戦した日に受胎して生まれた子供です。3000倍の軍事力の差のあるアメリカとの開戦にのめり込んで行ったのは、一部の軍人の暴走ではありません。日本社会の世論が、こうした方向に動いて行ったのです。こういう日本人の同調して行く世論や動向を、私は信じられないのです。深い、疑いが有ります。だから、日本の社会と渡り合って行く時には、無償の行為の中で、観察し、測定して行く事を、私は選んだのです。

さて、村松画廊での企画は、須賀昭初氏の回顧展の企画に関係していて、破綻します。

私の方は、須賀氏の作品に、解説をつけようとしたのです。
「この作品は、藤枝晃雄氏が、こういう風に評価した作品です」と言った風に、作品にまつわる資料を付けて、展示しようとしたのです。それも、直接に村松画廊の川島良子さんと話すのではなくて、須賀氏を通して間接的に進めようとして失敗します。

川島良子氏は、モダニズムの純粋主義があって、「作品は眼で見ると、何の情報も無しで、分かる。情報なしで、鑑賞して、善し悪しが分かる」と信じていた様に思います。この時は、モダニズム研究会という会をやっている時の事で、その中での山倉研志という作家が「彦坂が須賀氏を土下座させた」というような言いつけ口をして、私と川島氏の中を壊します。本当に土下座させたかどうかは、私は覚えていません。清水誠一は、させたと言っていますから、させたのでしょう。以後、村松画廊とは、疎遠になります。私に代わって山倉が村松に入りますが、すぐに終わります。山倉研志は、私がかわいがって、売り出して行った作家ですが、彼が、私を刺したのです。人間は、かならず、裏切ります。
だから、私は人を裏切りません。《象徴界》的に、継続するのです。
 彦坂尚嘉の無償奉仕を切り捨てた村松画廊は、かつての1970年代/80年代の様な、状況性をもった文化の拠点としての輝きを失って、凡庸な、ただの貸し画廊に停滞しています。しかしそれが本来の姿であったと言うべきなのかもしれません。

同じ様な事は、東京画廊でも起きます。
東京画廊でぶつかったのは、ビット展という企画を立てていた時の、第1回です。

その最初の吉田暁子の時に、彼女が強い主張をして、東京画廊の側が、彼女の側についたのです。

つまり展覧会の総合プロデューサーよりも、作家の方が強い権限があるのであって、プロデューサーは、作家の主張に従うべきであるとする、そういう考えを吉田暁子と、東京画廊が主張したのです。

吉田暁子は、かなり我の強い女性作家ですが、作品そのものは独創性も弱くて、人を引っ掛けて、引きづり回す力にたよる作家でした。私が選んだのではなくて、東京画廊側が選んだのでしたから、私は徹底的にぶつかって、事実上1回展は降りたのです。

ここでの激烈な喧嘩は、2回に及ぶもので、なまやさしいものではありませんでした。徹底的な激突でした、感情的なしこりが大きくできて、企画全体は再度私が全部を無事に終えますが、しかし東京画廊との関係は終わります。

言いたい事は、どちらが正しかったという事ではなくて、私が無賃労働で企画をして行く時には、村松画廊も、東京画廊も、私の雇用主ではないのであって、私の損得は別として、私は、自分が正しいと思う意見を言って、まちがった迷信を持っている画廊と、喧嘩をしうるという事です。

これが白濱雅也さんや松永康さんのように、マキイマサルファインアーツからお金をもらっていれば、雇用関係ですから、画廊主の意思は尊重せざるを得ません。

『秘伝ディメンション展』という企画でも、激烈なぶつかり合いを、林洋子さんや、タマダプロジェクトの玉田俊雄さんとしていますが、私が正しいという意見を言って、喧嘩を激しくし得るのは、無償労働をしている自由な立場に、私がいるからです。

私は、多摩美術大学のバリケード闘争から出現した作家であって、そういう暴力学生の出自を生き続けて来ているのです。私は暴力美術家なのであります。自分が認識を追い、そして自分が認識した正しい意見を言うという、そうした言論の闘争を継続してきたのです。

それもあってか、作家たちに対しても、自分の正しいと思う意見を言って、次々と激しい喧嘩をして、敵を、多く作って来ています。
彦坂尚嘉は嫌な奴だという、悪評を築いて来ているのです。
そうであるのなら、なおさら悪い奴になろうと、努力して来たのです。事実私は悪い奴なのです。
なぜなら、他人の期待を裏切ってはいけないからです。《美共闘》から出て来た作家が、その名前通りに《美》追求し、そして認識と言論の《闘争》し続けなければ、お話としては面白くないでしょう。私は、一つの物語を生きて来ているのです。

喧嘩は、しかし私闘ではありません。私の方は、あくまでも《認識》を追求しているのであって、作品に解説をつける必要は、その後には村上隆や、会田誠によって路線として成功して行くのです。なかなか、私が実際に解説をつけていくのは難しかったのですが、私自身も、遅まきながらも、彼らの路線に追随する道を取ろうとしているのは、村松画廊との喧嘩を思い出して、そこでの傷つき挫折した傷も癒えたので、過去の挫折を超えて、今、再度、自分の主張の展開を踏み出そうと決意するからです。
気体分子ギャラリーでは、これを懸命に実現しなければなりません。

東京画廊が、作家に強大な権力を認めて、作家主義をとっているのも、間違いです。
そもそも、初代社長の山本孝さんは、偉大なプロデューサーでありました。私もプロデュースされていますが、その腕力は、すごいもので、作家をねじ伏せています。これも書くと長くなるので、別の機会にします。東京画廊初代は、偉大な人物であったのですが、息子たちは、その父の偉大さを、知的には理解継承していない様に、私には見えました。

今の東京画廊が、プロデューサーをないがしろにするのは、先代の偉大さの伝統を否定するだけでなく、少なくとも国際常識には反するものです。国際展でも、プロデューサーの権限は、作家の権限を遥かに超えている強大なものです。

正直言って、こういう作家主義の迷信は、古いのです。それは近代個人主義が、もはや終わって、新しい集団戦の時代になっていることを、見落としています。ここ20年以上、成功しているアーティストは、皆、集団で工房制作をしている作家たちです。

むしろ作家をきちんとマネージメントして行く為には、プロデューサー権限を強くして行かないと、駄目なのです。

白濱雅也さんが、先日やった写真展の企画でも、ある作家が強い主張をして、白濱さんが悩んでいたので、そんな自己中心主義の作家は、切ってしまった方が良いと、助言をしました。作家なんかいくらでもいるのです。才能は、夏草のように生えてきます。しかし寿命は5年、実質は3年です。成長し続けられる作家は、ものすごく少ないのです。近代個人主義を信奉する古い作家は、切り捨てて、自然淘汰に任せれば良いのです。現代は集団戦です。良いリーダーのもとに結集して、土砂崩れのように進まなければ取り残されます。私が五十嵐太郎さんを信じるのは、彼はすぐれたリーダーだからです。度胸もあるし、目配りも、知性も、傑出しているのです。アートスタディーズは、五十嵐さんをリーダーとする土砂崩れの流れなのです。

白濱さんは、結果的には、その作家は切り捨てて、別の作家になりました。自己中心性だけの作家は、どちらにしろ長期的には伸びません。どうせ5年で凡庸に沈みます。切り捨てて行く方が、良いのです。

とにかく、こうして無償奉仕の企画の連鎖は、多くの敵を生み、沢山の喧嘩を生み、彦坂尚嘉の悪評を築きあげることになったのです。

彦坂尚嘉というのは、《美共闘》出身の悪役美術家なのです。
「悪役美術家」を生きるという事を選んだのです。
だから《41流》です。

悪役とは、映画・テレビドラマ・舞台演劇・小説などに登場する悪人の役のことです。。また、そこから転じてマスメディアにバッシングされている人物、組織内で人に憎まれている人物を指す事も多いのです。日常会話でも「悪役に回る」、「悪役に徹する」という形で使われてきています。彦坂尚嘉は悪役美術家に徹して来ているのです。

勧善懲悪などの要素を含む物語では、悪役は必要不可欠の要素です。悪役がふてぶてしく立ち回る事により主人公の存在感をより鮮明にし、また主人公やその仲間に倒される事で視聴者にカタルシスを与えるのです。基本的には物語の根底を彩り、主役たちを引き立たせる、地味ではあるが重要な存在であるのです。美術でも同様であって、悪役美術家の存在が美術史を活性化して来たのです。彦坂尚嘉もまた、こうした悪役美術家の道を選んだのです。

悪役を演じる俳優は、その役柄とは対照的に、時に主役級の俳優以上に実生活におけるモラルや金銭などに対して高潔であり、自身を厳しく律している人物も多いと言いますが、彦坂尚嘉がお金に対しては、異様に無償奉仕制にこだわったのも、同じ様なところがあります。

【続きあります。下をクリックしてください。】



さて、喧嘩の話に戻ります。

喧嘩の代表が、中山正樹さんとの抗争でしょう。私は、中山正樹さんの回顧展をギャラリー手で1つ開催し、私の関係もあって、東京画廊での個展も生み出しました。こうした活動も、経費持ち出しのボランティア活動で、無償奉仕でした。私は、一銭もお金を得ていないのです。しかし少なくとも中山正樹さんには利益があったはずなのです。しかし、作家の側に利益があっても、私のこうした無償奉仕の活動は、他のいくつもの例でそうなのですが、作家たちの憎悪を生みます。何故なのかを説明するのは難しいですが、作家の側に負い目を生じるのかもしれません。私に感謝するのではなくて、憎んでくるのです。私をつぶそうとした人は、沢山います。経歴や本から、私の名前を削った作家は、沢山います。中山正樹さんは、私の悪口を言い続けていたのです。彦坂尚嘉を切り捨てて、中山正樹さんが東京画廊に入ったと言う展開は、山倉研志と村松画廊の関係と同じです。山倉が村松からすぐに消えたのと同じ様に、中山正樹さんも、東京画廊に定着しなかったようです。しかし中山正樹さんの、彦坂尚嘉に対する憎悪は本物で、継続したのです。

これについては、一度殴り合いをするという話になって、私が受けたのです。決闘ですね。私は女房に、「私は山中さんを殺しはしないが、徹底的にやるから、私は死ぬかもしれない。覚悟してくれ」と言ったのです。女房は、止めませんでした。もう1人別の女性に話しましたが、彼女も止めませんでした。女は、男が決闘する事を、むしろ歓迎するのです。私自身は、決して喧嘩は強くはありませんが、小学校1年の入学式の最初に日から、喧嘩を繰り返して来ているのです。この時も、中山正樹さんとの、徹底的な殴り合いで、自分が犬死にしても良いと思っていたのです。死ぬことに、怯えはありません。私の家は武士の家であって、小さい時から『葉隠れ』という武士道の本は読んで来ているので、武士というのは、犬死にを恐れないという覚悟を叩き込まれているのです。結果は、私の死を覚悟した顔が、よっぽど気持ちが悪かったのか、彼が喧嘩を避ける道を選びました。今でもしかし、残念に思います。徹底的にやりたかった。

さて、こうして私の無賃奉仕の活動は展開してきて、多くの喧嘩と、憎悪と、悪評を生み出し、孤立を深めて行きました。2003年の越後妻有トリエンナーレの時が、最悪の状態であったのです。「そして、誰もいなくなった」という状態になって、私は、関越自動車道を、愛車のスポーツ車仕様のブルーバードで、170キロで飛ばす事を繰り返していました。車の中で、かけていた音楽はメガデスでした。それも初期の1枚目と2枚目でした。日本車で、170は怖いし無理なのですが、ドイツ車の後ろに付けて走れば、出るのです。さすがに、一度警察につかまって、免停になりましたが、死にはしなかった。本気で死ぬ場所を追い求めて行くのだけれども、なかなか死なないのです。

越後妻有トリエンナーレは、3回全部出ていますが、この2003年は、東京の美術界とは完全に切れた状態でした。ギャラリー手の杉山旭氏もこなかった。そのとき2度見に来てくれて、誘ってくれたのが、タマダプロジェクトの玉田俊雄さんだったのです。玉田俊雄さんに、五十嵐太郎さん、新堀学さん、橋本純さんなどを紹介されて、アートスタディーズが始まる事になります。ですから、玉田俊雄さんには、深い恩義があるのです。


無償奉仕の行為というものは、良いかどうかは、確かに分からないのです。多くの喧嘩を生み、憎悪を生み、悪評を生む事を経験してきました。無償奉仕した作家は、すべて、御をあだで返して来ています。ひどい仕打ちに沢山合いました。若い作家を育てようとする事は、経験的には、無意味であると思います。むしろ拝金主義で、金にならない事は、やらないという態度の方が、良いのかもしれないと、最近は考えています。

気体分子ギャラリーは、ですから純粋に商業主義の画廊です。きちんとマネージメントはするし、作家の位置づけやパッケージングは考えたいと思いますが、基本的に安く作家から買いとって、高くお客さんに売ると言う路線です。今までの無料奉仕ではなくて、商業的な投機主義です。若い作家を食い者にする悪徳画商を、作品として、やってみたいのです。つまり気体分子ギャラリーというのは、コンセプチュアルな作品なのです。



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しかしこうして、私自身は、無償奉仕の行為の中で《認識》を追い続けて、そして喧嘩をしつづけ、悪評を築く事で、ついに、ある到達点に達したのです。

ここで、考えは、再度整理されます。

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昨日も、坂上しのぶさんは、1975年にパリ青年ビエンナーレにいって、評価も高い時期に、何故に、満足しないで、「東京芸術4」というグループ活動をはじめたのか? という質問をしてきました。私の欲望は、高かったのです。美術をやるからには、レオナルド・ダ・ヴィンチや、ヴィン・アイク、雪舟、宗達に比肩しうる美術作品を作り得るところまで、行きたいと思って来たのです。人類の達しえる限界の高さまで、この日本の社会にいて、その内側から食い破って、高みを見てみたいと思って来たのです。誇大妄想的な願望を、私は持ち続ける、大器晩生の巨匠アーティストなのです。だから、たかがしれた成功で、満足する気はなかったのです。

制作構造的には、《想像界》《象徴界》《現実界》の3界で、すべて真性の芸術にする技術を獲得できたのです。

さらに、芸術とエンターテイメント的デザインの関係が整理できることによって、人を魅了するメカニズムが、コントロールすることが出来る様になったのです。

そして《超1流》から《41流》までの格付けを、制作の中で実現し、コントロールすることが、最短で出来る様になったのです。

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人間の諸関係というのは、2つの空間構造がある事が整理できる様になりました。

アボリジアにのような、原始的な自然採取社会は、共同体があって、そういう共同体の空間をコスモス(秩序)と呼びます。ここには金銭と言うものはありません。ここでは共同性と分配があって、金銭も市場も無かったのです。つまり私の無償奉仕の活動というのは、実は、こうしたコスモスの空間で行われた活動なのです。つまり私は、勝手に無償奉仕活動をすることで、コスモスを、勝手に想定して作り出して来たのです。コスモス(秩序)の中には、文化があります。【文化ー内ー存在】として、人間は生きていることになります。これが、フーコーが《規律社会》と呼んだ社会です。ここには、文化も、秩序も、芸術も、学問もあったのです。


しかし現実は高度消費社会になっているのです。この高度資本主義社会というのは、どうも、【文化ー外ー存在】であるようなのです。つまりフーコーが予見した《管理社会》というものには、規律も、教養も、文化も、芸術も、学問の、どうも無くなって行く傾向が強く見られるのです。高度消費社会を支配する市場というのは、どこから生まれて来たのでしょうか?

それは原始時代にまで、さかのぼってみると、共同体と共同体の間のカオスの中から生まれてくるのです。つまり原始共同体の群れと、群れの間で、まず、沈黙交易という形で、市場が生まれます。「はじめにすべてありき」という原則から考えると、この共同体のカオスから生まれた沈黙貿易の市場こそが、共同体のコスモスの中に折り返されて来て、コスモスという秩序が分断されて行く歴史が、実は現在の高度市場社会の成立の過程でありました。

現在は、個人と個人の関係も分断しているのは、実は市場というカオスから生まれた空間であって、事実上コスモスはすごく、弱くなっているのです。このことは地域差もあります。関西は、まだコスモスは残っている様に思えますが、東京は、ほぼ完全に市場社会になって来ているのです。ここでは無償行為は、実は成立しないのです。

 つまり、金銭を介してしか、芸術も人間関係も成立しなくなったと言うのが高度市場社会であり、そこでは、有償性しか無いのです。そして、市場社会は【文化ー外ー社会】なのです。文化がないのです。

しかし、金銭に還元する有償性のなかでは、実は、すでに述べた様に、芸術の探求は出来ないのです。認識の探求も出来ないのです。



私が無償制にこだわって来た事は、実際は有効性があって、多くの学習が出来たのです。そして芸術的な結論を、私は出しえたと思っています。

これからはニーチェのいう没落の道だけです。頂点に至り付いた者は、あとは没落しかないと、ニーチェは言うのです。では、いかにして没落しえるのか? 無償の行為の追求とは反対の事をするのです。これからは、拝金主義者になって、この高度市場社会の中で、お金を追求したいと思います。自分が達成した技術と見識を、金に換えて行く。しかしそのこともやさしい事ではありません。



それは、一つには、歳をとってくると、気力がなくなるので、気力を振り絞る為には、若い時にやらなかったことをやる必要があるのです。だから商売や、事業を追求してみようと思います。

おそらく、人間は、金銭追求と、無償の行為の、二つで動く自動車なのだろうと思います。どちらがブレーキで、どちらがアクセルかは、分かりませんが、しかし、この正反対の手法でもって、人生を切り開いて行く。

今までは、無償の行為で切り開いて来た私の芸術道は、これからの没落の道は、守銭奴になって、切り開くのです。

こうした没落の道のお手本は、アルチュール・ランボーです。

1875年、最後の詩を書いた後、様々な職業を転々として、武器商人となります。ランボーはエチオピア通となって、商人としては、比較的成功したのです。1891年、骨肉腫が悪化してマルセイユへ帰り、右足を切断したのですが、癌は全身に転移しており死去。臨終は妹のイザベルが看取ったのです。

詩人から武器商人になるという展開は、素晴らしいもので、まさしく《41流》ですね。

とにかく、無償の行為をして行くと、馬鹿な人々と喧嘩になるのです。この争いを止める為には、金を追求した方が、人と争わなくてすむ。

馬鹿な人は、良いお客さんであって、金儲けの対象であるということを、商売をしている人々は、私に教えます。同じ次元には立たないで、適当にあしらい、遊ばせて、金を抜けば良いと教えるのです。他人を食い物にしろと、教えてくれます。弱肉強食です。弱い者を食えば良いというのです。確かに、そうなのかもしれません。

お金に還元する以外には、人と喧嘩をしないで、すませることが出来ない様に思います。平等に、対等に話して行こうとすると、喧嘩になるのです。むしろ金を他人から抜こうとして、有償の利益追求をする道こそが、実は、人間関係の要(かなめ)であるのです。

もう、正直に発言して、他人と争う事は、止めようと思います。あしらっていく事です。もはや、この世界はコスモスではなくて、市場と言うカオスなのです。カオスには教養は無く、規律も、文化も無く、芸術も無いのです。あるのは歴史無き、《現実界》の世界です!

そこには、青空の様な、《空》と《無》が広がります。

すべての意味は消えて、無意味だけが存在するのです。

完全なニヒリズムの世界です!

なんと、美しい世界でしょうか!

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これに関連して、コメント欄に松永氏より次の様な書き込みがありました。

先日はありがとうございました。

「マキイマサルファインアーツは、その前には松永康さんが企画に関わっておられましたが、彼も企画料や経費はもらっていたはずです。」

この前後2、3日分、読み飛ばしてました。
私の話が出てましたが、このブログには1日1000件以上アクセスがあるということなので、誤解を招くといけないので若干説明させてください。
私はマキイマサルファインアーツから企画料はいただいてませんでした。
企画ではなく、正確にはコーディネートという立場だったので、作品の売上げの2割をいただくという契約でした。
案内状は原則作家負担でしたが、在外作家の場合は私が作ってました。
結果として、1展示あたり2万円ほどの平均収入となりました。
ただし私の場合は、マキイマサルファインアーツとは別に、牧井社長が上海に出した井ARTギャラリーというところで、2006年1月から2007年8月までアーティスティック・ディレクターをしていたということがあります。
毎月上海通いをして月15万円(旅費別)の給料だったので、私にとっては決して充分ではありませんでした。
しかし牧井社長は、やはり社長でして、浅草橋に移転したばかりのマキマサルファインアーツで、会場が埋まっていない枠を私が自主的にコーディネートしていいよと言ってくれました。
断れる立場ではありませんし、それで結局、2005年12月から、佐藤さんが画廊に入る2007年4月までの約1年半の間に、12回の展覧会をやらせていただくことになったという次第です。
牧井社長としては、作家を紹介してもらうぐらいの軽い気持ちだったのだと思いますが、アート・コーディネーターという立場では、なかなかそうはいきません。

ところで、「経済」という言葉を使うと、どうしても一般に市場経済を指すように思われがちです。
しかし、実はもっと大きな経済の流れがあって、その中の一部に市場経済があるのだと思います。
よく使われる言葉では、交換と贈与、生産と再生産などというふうに分けられます。
贈与の循環の一部に交換があり、再生産の循環の一部に生産があるということです。
「金銭追求と、無償の行為」も同じことなのでしょう。
美術作品も、その流通の場(作品の内容ではない)に応じて、このどちらかに分類できると思います。

by 松永です。 (2008-08-04 11:59)

さて、長くなりましたが、この後に、お約束のように、糸崎公朗さんに対する批評文を書きたいと思います。
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New HIKOSAKA 彦坂尚嘉

Author:New HIKOSAKA 彦坂尚嘉
彦坂 尚嘉(ひこさか なおよし、1946年6月26日 - )は、 美術家。立教大学大学院特任教授。日本建築学会会員。日本ラカン協会会員。気体分子ギャラリーを主催。

【著書/出版】『反覆/新興芸術の位相』(74年、田畑書店)、『死に対抗する力』(91年、ギャラリーKURANUKI)、『リノメランコリア』(94年、岡部版画工房)、共著『リベーションの現場』(05年、彰国社)、共著『メディアと精神科医』(05年、批評社)。共著編『皇居美術館空想』(08年9月朝日新聞社)。『彦坂尚嘉のエクリチュール』(08年、三和書籍)、共著『3・11万葉集 復活の塔』(2012年、彩流社)

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