topimage

2012-01

スポンサーサイト - --.--.-- --

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

彦坂尚嘉のログ・ペインティング - 2012.01.30 Mon

関連記事
スポンサーサイト

山田幸司作品集 ダイハード・ポストモダンとしての建築(加筆1) - 2012.01.29 Sun

表紙

山田幸司作品集 

ダイハード・ポストモダンとしての建築


2009年11月に不慮の事故で、40歳で夭折した建築家、山田幸司の作品集と追悼文集。前半は1998年にSDレビュー新人賞を受賞した「フォアタワー」のドローイングに始まり、プロジェクトや実作、そして卒業制作と卒業論文を掲載し、後半部に29人が寄せた追悼文がまとめられている。

五十嵐太郎研究室が編纂し、建築系ラジオが出版した作品集です。

山田幸司は、建築家石井和紘に師事。日本人建築家の中では数少ないハイテク派で、建築批評家の五十嵐太郎は、山田の独特の建築スタイルをダイハード・ポストモダンと称している。五十嵐太郎、南泰裕、松田達とともに、コアメンバーとして建築系ラジオを主宰していた。特にVectorWorkによる三次元CADの第一人者としても知られており、今後の活躍が期待されていたが、不慮の事故により急逝。享年40。


発売中

定価2000円
残り、在庫が50冊を切りました。
下記書店で発売中です。

南洋堂書店
http://www.nanyodo.co.jp/
紀伊国屋書店


彦坂尚嘉も文章を寄せいています。
中川君がスキャンしてくれたのですが、読めなくてすみません。

メモリアルライティング

建築系ラジオの出版が成立して、私は高く評価しています。五十嵐さんは出版には積極的で、面白いと思います。

今日の出版事情の悪化というのは、逆に面白い出版を可能にしてきています。私自身は、電子出版の可能性と、紙媒体の伝統的な出版を同時に成立させることに興味があります。

紙媒体の出版は、少部数で良いのではないかと思うのです。とりあえずは2部。2部ができたら8部。そういう少数のレベルでの本を考える。同時に、電子出版で出す。それは有料ブロマガでも良いのですが、そういう出版を考える。










関連記事

《想像界》について - 2012.01.28 Sat

《想像界》が基本か?

人間の心というのは、単に心というものではなくて、人間の脳の世界なのです。
人間は脳で外部を認識しているのですが、同時にそれは脳以外では認識することができないという限界の中に存在しているのです。

この当たり前のこと、つまり人間は脳を媒介しにして外部を認識しているだけなので、この媒介性の外部には出られない。このことを意識すると、手で触ろうが、眼で見ようが、結局は神経を介して刺激のパルスを受け取って判断しているのです。その判断には、神経を介しての刺激を受けて、その神経情報で外部を想像しているだけだと言えるのです。

神経情報で外部を想像しているだけですから、ですから普通の日常語で「現実」といっていることはすべてが、ラカンの用語で言うところの《想像界》に属しています。

《想像界》とは何なのか?

もともとはジャック・ラカンの用語です。彦坂尚嘉の用法は基本的にはラカンに沿っています。しかし彦坂尚嘉的に言えば、《想像界》というのは、脳によって外部を知覚することと、その知覚による判断の集積のすべてです。そこにはそうした判断の習慣化したものや、社会常識や、集団化された傾向なども入ります。これらすべてが《想像界》なので、広い領域であると言えます。

つまり人間は、《想像界》の内部に生まれるのです。
彦坂尚嘉の理論的な仮説では、この《想像界》は、テレビやコンピューターのモニターのようなものですが、
ラカンが指摘したのは、このモニターは鏡を見ているような鏡像の世界であるということです。

ここにラカンが指摘した重要な問題があります。

脳の中に映る神経情報のモニターには、自分自身の情報が十分に映らないのです。
巨大ロボットのガンダムのようなものに乗って、外部をモニタだけで見ていても、そこには肝心の自分自身の情報が不十分にしか映らない。

人間は他人の顔や姿は完全によく見えるのですが、自分自身は鏡に映さないと見えない。
鏡の像からの類推で、自分自身を想像の中で仮想としてイメージして、それを確かな自分自身として認識しようとしている。

つまり自己認識という基本そのものが鏡像に依拠しているために、
人間の脳神経の情報モニターというのは、こうした鏡像的な仮想性をもっている。
そのために妄想や、際限の疑心暗記などの心的世界の際限の無い闇が広がるのです。

この比喩を実際の自動車の運転に当てはめて考えてみても、
一台の小さな自動車を運転するだけでもフロントガラスから外部を見るだけでは足りなくて、バックミラーや2つのサイドミラーが必要です。つまり自動車の段階でも、外部を認識するためには鏡像が入ってくるのです。それでも死角はあります。

つまり神経からの情報をもって、脳が判断するのですが、その判断には想像による類推や偏見が入ってくる。今回の3.11東日本大震災でも、安全バイアスや、他人と一緒に行動しようとするバイアスなどの偏見による判断間違いによる死者が沢山出ています。つまり情報を正確に把握して、正しく認識し行動を起こせば、十分に津波から逃げる時間があったにもかかわらず、多くの人の脳が、正確な情報を把握しないでバイアス=偏見でゆがめてしまっているのです。このように、脳というのは、実に偏見や妄想、因習等々の間違った判断をするもので、それによって多くの人が現実に死んで滅亡するのです。

つまり脳というのは、入ってきた情報そのものの収集能力や情報の採取も不十分ですし、そしてそれを判断するのも、さまざまなバイアスやイデオロギー、思い込み、昔の記憶、無知、奇妙な欲望、恐れ、怯えなどに影響されて、判断を間違えるシステムなのです。その根底にあるのが、複数の心的な鏡が相互に映しあって超多層の世界をつくっているという《想像界》そのものの構造性にあるのです。

仏教が問題にした人間の苦というものは、人間の《想像界》が生み出す際限の無い妄想性と執着の世界でした。これをどのように克服するのか?

(以下は、ラカンが書いていない、彦坂のオリジナルの理論展開です。)

《象徴界》の出現

『美術の3万年』という本で、人類の初期の美術を言語判定法で見ていくと、
エジプト美術の成立前の原始美術は、《想像界》だけの美術で、《超次元》~《第6400次元》までの超多層性があります。なぜにこれほどの大きな数字が原始段階ででてくるのか?

脳内の心的な鏡は、4枚あって、相互に映し合っているので、まるで鏡地獄のような深さを持っているのです。
この4枚というのは、ラカンが言った《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》の出現を美術史の中で検証しようとしているので、4枚ということになっただけです。もっと多いのかもしれないとも思います。

エジプト時代になって、定着して農業をはじめて、書き言葉(初期は石に彫ったもの)が出現します。石に彫った言葉として法律ができて、(モーゼの十戒は、石に彫ってあることば)、ここで初めて人間の《象徴界》が出現するのです。

エジプト美術を見ると、《象徴界》は《第1次元 社会的理性領域》だけの単層です。
つまり《想像界》の《超次元》~《第6400次元》という超多層性は、《第1次元 社会的理性領域》だけに圧縮されて《象徴界》という新しい鏡面が出現したのです。この鏡面が写しているのは、脳が見ている普通の外部世界では無くて、石に彫られた文字の世界なのです。

脳が、《想像界》だけで無くて、2つに分裂して、《想像界》の外部を持ったと言うことが重要です。これによって、《想像界》の妄想や過剰な執着に対して、別の思考方法が入って、この《想像界》の暴走を抑圧するようになるのです。


この石に彫られた文字の世界だけを見て考える脳の活動が《象徴界》なのですが、しかし、石に彫られた文字は、従来通りの《想像界》の眼でも見えます。この2重性が重要なのです。


彦坂尚嘉の言語判定法での測定で見ていると、《想像界》だけしか無い人々がかなりの量います。10人中6人から8人です。この多くの人は《想像界》の眼だけで文字を見ています。

この《想像界》だけの眼で文字を見ている人は、小説は読めるのですが、批評や哲学は読めないか、読むのが好きでは無い。さらには読んでも理解できない様です。

哲学の本を漫画で読みたいという人がいましたが、それは意味の無いことです。漫画というのは《想像界》を基盤にして成立しているので、《象徴界》の哲学を、《想像界》に転写してしまうと、重要な中心は消えてしまうのです。『ソフィーの世界』という1991年に出版されたファンタジー小説がありますが、これは哲学を少年少女に教えようという意図で書かれていますが、同様に《想像界》に翻訳してしまった「まがい物」です。哲学を小説や漫画にするというのは、《想像界》の中につくった「まがい物」、偽物なのです。哲学をイメージやストーリーの《想像界》に還元しては駄目なのです。


しかし駄目でも良いからまがい物で良いから分かりたいという人々がいます。つまり《象徴界》を理解できない人が、これを《想像界》で翻訳して、まがい物で満足するという代表品文化が生まれるのです。その最初が大乗仏教の成立です。教典として代表的なのは法華経なのです。今日で言えば幸福の科学の大川隆法の著作はまさに、《象徴界》を《想像界》に映し出して、まがい物を作り出しているのです。

まがい物や、代用品では駄目なのか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

しかし石に彫った文字そのものが、人間の話し言葉を道具として外部に出したまがい物の言語なのです。この言語の偽物性を告発したのが『老子』でした。ものが名付けられる以前の存在を《玄雌》と呼び、これが名付けられることによって、その本質が失われ、「鬼神が泣いた」と書いています。

つまり人間の文明の構築というのは、道具を作り出すことなのですが、道具というのは人間の身体性を外に出すことなのです。
たぶん、一番初期の道具というのは《石器》です。《石器》によって、切る、叩く、などして他に直接作用するものから始まったのですが、これは動物を殺すのに使った人間の爪や歯という身体を、道具として外部に出したものと考えられます。

道具はしかしカラスやチンパンジーも使うので、もともと生物の本能の発達の中から出てきていると言えます。人間特有と言われるのは、道具を創るための道具という第2次道具という工作機械をつくったのが、人間の独自性と言われます。ですから石器段階でも、石器を創るための石器というものが有ったのでは無いかと思います。

道具をつくるための道具という2重性こそが、人間の文化の基本なのです。

言語でも同様な事が言えて、言葉を生み出すための言葉というものがあります。

さらには、芸術作品を生み出すための芸術作品というものがあります。

具体例としては、近代建築を作り出した一人であるコルビジェというのは、どういうふうにすれば近代建築が建つかというお手本を作る作業をしました。つまり近代建築を作るための近代建築という2重性が、コルビジェの建築であったのです。

この事は、モダンアートの印象派、キュビズム、未来派、ダダイズム等々にしても、皆同様で、どうしたら印象派の絵画が作れるか、どうしたらダダイズムの美術がつくれるか、というノウハウのハウツー本のような歴史が、モダンアートの歴史であったのです。

閑話休題。話を石器に戻します。しかし彦坂尚嘉の言語判定法ですと、この石器というものが、《想像界》だけの制作物であると判定されます。彦坂尚嘉の言語判定法では、原始時代のあらゆる制作物のは《想像界》の産物であるという特徴があるのです。

そこで《象徴界》が外化するのです。この石に彫った言葉というとロゼッタストーンなどが有名ですが、石に彫った言葉の存在性と、巨石文化や、後のピラミッドの建設、さらにはローマ帝国のローマの都市や建築と連続しているものなのです。文字はこうしたローマ帝国の建築に彫られていて、そこには大文字しか無いのです。小文字というのは、文字が紙に書かれるようになってからなのです。つまり書き文字とこうした巨大な石の建築物は深い関係があって、書き文字のこうした人工環境の構築を理解しない人は、《象徴界》が理解できないのです。

《象徴界》の言語というのは、言葉による建築なのです。この場合、建築という意味は、自然では無い人工環境という意味で、それはイタリアなどに見られる都市国家というものです。つまり建築や《象徴界》の言語そのものが、つまり自然環境の代用品なのであり、人工的なまがい物なのです。しかしそのまがい物が、人間の文明的な進化へと展開していることが重要です。

そのまがい物としての《象徴界》を、再度、《想像界》に押し戻して、《象徴界》のまがい物を《想像界》で作り直すというのは、実は退化ということなのです。つまりまがい物には、文明の進化としてのまがい物=道具1と、退化としてのまがい物=道具2があるのです。両方ともまがい物であり、偽物ですから、まがい物を創ることが悪とは言えません。しかも退化としてのまがい物というのは、既知の中に差異回収することなので、安心できるし、多くの人が歓迎するので、良いこととして評価される傾向が強いのです。特に後ろを向いている社会になってしまった日本には、この傾向が強くあります。


つまり理論的な文章を読むためには、石に彫られた文字を、きちんと読んでいって、この石に彫られた文字が、実はエジプト文明をつくっていくと言うこと。今日でも、文字が文明を創っていくことを理解する人々が、《象徴界》の精神を持っているのです。それだから《象徴界》の精神のある人は、本を読むことで、書き文字を介して世界を理解することを重要だと知っている人です。


それに対して《想像界》だけの人は、直に現実世界に接触していることが、重要な人々です。それこそ、町歩きしたり、フィールドワークを終始する人たちです。
もともと原始社会では、《想像界》だけの人間だけがいたので、《想像界》だけの人というのは今日の野蛮人なのです。

《象徴界》の人々が、人間の文明の初期に少人数ですが現れるのですが、そのすべてでは無いでしょうが、一つのグループが集団が小乗仏教(上座部仏教)です。ここでは戒律遵守が主張されるのですが、やや乱暴に言えば、つまり石に彫られた戒律を重視することで社会を形成しようとする官僚集団が、《象徴界》の実態として生まれるのです。わかりやすく言えば、文字だけを読んで、現実を判断する人々です。つまり現実を見ても判断ができなくて、文字を見て初めて分かる。こうした人々が現実に存在しています。つまり現実の代用物である文字だけになってしまった人々が、文字にとらわれて集団で生きるようになったのです。

文字であることだけで閉じると、文字だから勝手に書けることがあります。その書けることで暴走していくと、書いたという文字だけのバーチャル世界が、逆に現実を新たにとらえるきっかけになる。これが中世の神学であるのです。この文字だけの世界を読めない人がいると言うことは書きましたが、それは詩として文字を読んでいないからです。詩といっても谷川俊太郎のような《第3次元 コミュニケーション領域》の分かりやすいものでは無くて、難解な現代詩です。現代詩の面白さは、文字で書けることの極限を乗り越えた執筆だからです。文字だけだから可能な世界。それが《象徴界》の世界であります。

こうして学問の名にかこつけて、文字だけに溺れていって、現実を直視できない「おたく」が多く出現したのが仏教僧の世界でした。その文字馬鹿を否定したのが、禅宗だったのです。不立文字を主張する。つまり書き文字を否定し、文字を破壊する。教典を否定し、学問僧を否定し、頭を殴る。谷底に高僧を蹴落とす。こういう否定によって出現したのが《現実界》であったのです。

つまり《現実界》というのは、日常用語の「現実」という意味では無くて、書き文字という聖書や仏教経典を書いてきた文字を否定して出現するものです。
書き文字の否定という意味では、数学に基礎を置いて、数式で世界を対象化しようとして近代自然物理学が出現して、《現実界》が出現するのです。近代科学の基本は、こうして数学に還元された《現実界》の展開された領域でした。美術もまた《科学美術》《数学美術》が出現してきます。しかしこれらは、必ずしも《現実界》の美術では無かったのです。

《科学美術》としては、葛飾北斎、クールベ、モネ、セザンヌ、ゴッホ、未来派、ジャスパー・ジョーンズ
《数学美術》としてはスーラー、マレーヴィチ、モンドリアン、ジャッド、ジャスパー・ジョーンズ、セラ、フランク・ステラの「ブラック・ペインティング」、ロバート・マンゴールド
《情報美術》としてはデュシャン、コスース、シンディ・シャーマン、

スーラーは《想像界》の美術。

葛飾北斎、、クールベ、モネ、セザンヌ、ゴッホ、未来派は、モンドリアン、マレーヴィチ、コスース、シンディ・シャーマン、ジャッドは《象徴界》の美術。

デュシャン、ジャスパー・ジョーンズ、セラ、フランク・ステラの「ブラック・ペインティング」、ロバート・マンゴールドは《現実界》の美術。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
さて、このタイトルは《想像界》についてなので、《想像界》の話でまとめます。

フランク・ステラは、ブラック・ペインティングで登場しますが、これは数学美術で、しかも《現実界》の美術でした。
しかしその後レリーフに展開して、装飾美術に退化します。それは同時に《想像界》の美術への退化であったのです。
今日どれほど評判になろうとも、装飾美術への退化や、《想像界》の美術への退化は駄目なのです。

そういう中で、議論は宗達や、フリップ・タフなどの装飾の肯定と否定の同時表示をもった作品をめぐる評価の問題になりますが、それを、私は『3・11万葉集』の本で書きました。まあ、装飾の問題は難しいです。《想像界》も、錯綜しているので、むずかしいのです。
関連記事

高田渡と清志郎/プロテクトソングの系譜(1) - 2012.01.27 Fri



こうした歌を、ふざけていて、気晴らし音楽だと思っている人がいます。そう思う気持ちは分からないではありませんが、狭い認識です。

エジプト美術は《第1次元 社会的理性領域》だけの美術ですので、社会的に正しいきちんとしたものが芸術であるという価値観は、実はこのエジプト芸術の系譜であるのです。

しかし人類の歴史は長くて、現在では700万年と考えられています。そうした長い歴史の中で芸術を見ると、《第1次元 社会的理性領域》だけにしか芸術を特化したものは極めて特殊な形態なのです。

アメリカのフォークソング運動は、民衆の歌を採取する学問的な運動からプロテクト・ソングの系譜を築き上げました。そこには《第1次元 社会的理性領域》だけに特化した芸術では無くて、《超次元》~《第51200次元》までと超多層性をもつ、芸術の可能制が解放されてあったのです。






 ホークソングが《真性の芸術》になったことに、私は驚きがありました。
 普通の民族音楽とか、民衆音楽というのは《芸術》ではないのです。それは非人称芸術であって、デザインです。芸術ではない。

 たとえばレゲは、高度な展開を遂げます。特にダブは、すごいものだと思います。リーペリーの『スーパーエイプ』に私は夢中になったときがありますが、しかしレゲは、芸術にはならなかった。




 しかしアメリカのホークソングが《真性の芸術》になったのは、その背景にアメリカ共産党の存在がありました。音楽家としてはピーターシーガーの存在が大きいです。ウディ・ガスリーも組合運動をしています。
 






政治的抵抗というのは、人間が奴隷や沼 正三が『家畜人ヤプー』で描いたような家畜人間ではないという問題として、その証明としての戦いがあるのです。だだから政治活動というのが、ギリシア市民を基準に考えれば当然の活動なのですね。

高田渡のホークソングの系譜には、こうしたピーターシーガー
や、ウディ・ガスリー
のフォークソングに見られる抵抗の原点が存在しました。そして高田渡や清志郎の歌は、デザインでは無くて、《真性の芸術》であり続けたのです。


 《群れ》をはなれた《孤児》であるという意味では、ホームレス化していた高田渡も《孤児》であるはずですが、高田渡の自我世界は、もっと縮小していて《妖精》なのです。
 同様に清志郎もまた《妖精》でした。自我の大きさを縮小していったときに出現するのが《妖精》という最小限の自我世界でした。


 

ただただ無難に生活をしたいという人々は、人間では無くて家畜ですから、人権そのものが無いので、政府としては放射能に関する適切な情報もいらないと考えるのでしょうね。家畜人間には、事実を知らせることは意味が無いのです。東電もまた家畜集団でした。家畜が原子力発電というような危険なおもちゃを持つこと自体が無謀なことでした。もっとも原発を与えたのはアメリカでした。



ホーマー・ジェイ・シンプソンは、アメリカのテレビアニメシリーズ『ザ・シンプソンズ』に登場する人物で主人公。
高校卒業後に原子力発電所で安全管理官として働いているが、数万回もクビにされては再就職を繰り返している。ふとしたことから昇進をするが、着任後に事故の発生回数が飛躍的に増加した。
頭の薄い中年で、社会的秩序に欠け、酒をあおり、飲酒運転して帰宅するのが日課となっている。


関連記事

M.I.Aとジャスティスの悪評の残酷ミュージック・ビデオ - 2012.01.26 Thu

M.I.Aの衝撃的な残酷ミュージック・ビデオです。ネット上でも「グロ・暴力・不健全」ということで、たいへん悪評なものです。

ミュージック・ビデオ
という範囲をを超えて、 短編映画ですが、特に最後のシーンは今までにないものです。

警告がついていますので、残酷シーンを見たくない人は見ないでください。私は悪評にもかかわらず、評価します。




映画をつくった監督がロメイン・ガルヴァスです。

この人がさらにつくったのが、、ジャスティスの「Strees」のPV。こちらの方が、もっとひどいです。これも悪評のビデオですが、しかし私は優れていると思います。




なぜに悪評の短編映画監督がすぐれているのか?

ここに描かれてているのは、彦坂尚嘉が《超次元》~《第51200次元》というところの世界です。こういう暗黒面を抑圧して社会という《第1次元 社会的理性領域》領域は成立しているのです。この《第1次元 社会的理性領域》の抑圧は重要なものですが、今起きているのは、この古い《第1次元 社会的理性領域》そのものが賞味期限を越えてきていて、再編する必要があると言うことです。

この古い社会理性が、現実に会わなくなっているという事実を認識する必要があるのです。



関連記事

谷川賢作氏について - 2012.01.24 Tue

緊急出版をしようという 『3・11万葉集:復活の塔』という本が、和歌を中心にバイリンガルになることになって、英語の題名が『March 11 Man’yōshū “The Tower of Resurrection”』となりました。題名については富井玲子さんに相談に乗っていただきました。

3月11日の一周年記念で、福島の南相馬の集会場で、コンサートをやることになって、谷川賢作さんと和合亮一さんに出演を引き受けていただきました。この企画そのものは、彩流社の出口綾子さんの立てたものです。先日の22日に鎌倉でお二人の催しがあったので、拝見に伺いました。

谷川賢作

谷川賢作さんというのは、NHKの歴史番組『その時歴史が動いた』の音楽を担当していた作曲家です。



谷川賢作さんのお父様は詩人の谷川俊太郎氏ですので、お二人が組み合わさった活動も沢山なさってきています。



演奏活動もなさってきています。



関連記事

《孤児》としての芥川賞受賞作家:田中慎弥 - 2012.01.21 Sat

人間の人格と芸術表現が、想像以上に深く結びついているのは美術と同様文学にも言えます。

17日、第146回芥川賞を受賞した田中慎弥氏の話題で、遅くて申し訳ないのですが、何しろ16日は南相馬に彩流社の編集者の出口綾子夫妻と、デザイナーの山田晋也氏と、レンタカーで作品5点(5点で一点という話もありますが)を持って、猛スピードで、しかも私が果敢に運転して、バテて無理になっても、誰も換わってくれなくて運転して、南相馬に行っていたので、テレビも観る暇は無かったのです。17日のも車で帰宅して、風呂に入って寝てしまったので、この芥川賞のニュースは知らないで過ごしたので、遅れてまして申し訳ありません。




まずは、このふてくされた態度は《孤児》の態度です。《孤児》としては典型的なもので、面白いですが、古いとも言えます。なぜなら、《孤児》というスタイルそのものは近代特有のアーティストのスタイルですから、古いのです。

《孤児》というのは、近代の《国民国家》の規模の人格からの退化形態なのですが、その最先端は何と言っても『悪の華』のボードレールでありました。現在の日本の《孤児》は、その風化形態と言えます。

000cb6_pho_xxx_xxx.jpg
 ボードレールは《孤児》の先駆者

baudelaire.jpg
《第8次元》の《孤児》、《超次元》~《第51200次元》の《孤児》


SEB200805150016.jpg

sha1201180506005-p1.jpg

TKY201201170681.jpg

129076l.jpg

f54c036afba56accc1217884ea34c016_20120121224336.jpg

51ea0479ff25fb9e34a3644677b7bfaf.jpg

彦坂尚嘉責任の[田中慎弥の顔]に対する言語判定法による芸術分析

アヴァンギャルドでは無い。
アウトサイダーである。
伝統的人物ではない。
現代アート的では無い。(固体で古い)

《想像界》の眼で《第8次元 信仰領域》の《真性の人格》
《想像界》の眼で《第8次元 信仰領域》の《真性の人格》
《想像界》の眼で《第8次元 信仰領域》の《真性の人格》
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界がある多層的人格。しかし《サントーム》は無い。

固体の様態をもつ古い単層人格。
しかし絶対零度/液体/気体/プラズマの様態は無い。

《気晴らし人格》の人物。《シリアスな人格》は無い。
《ローアート的人格》の人物。《ハイアート的人格》は無い。

シニフィエだけの人物。シニフィアン性はない人格。

理性脳の人物。原始脳性が無い人格。

《原始平面的人格》であって、《透視的人格》は無い。
オプティカルイリュージョン的人格ではない。
【B級芸術】。A級人格では無い。

《原人格》が無い。
《人格》《反人格》《非人格》《無人格》はある。
《世間体の人格》《形骸》《炎上》《崩壊》の概念梯子が無い。

《原-総合人格》ではない。
《総合人格》性も無い。

《原デザイン的人格》《デザイン人格》《非デザイン人格》《無デザイン人格》《世間体のデザイン人格》・・・の概念梯子がある。

《原大衆人格》《原イラストレーション的人格》《原シンボル的人格》の概念梯子がある。

《原-装飾的人格》《装飾的人格》・・・の概念梯子がある。。

《原-工芸的人格》《工芸的人格》がある。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

《真性の人格》ではない。《キッチュな人格》

人格の意識の大きさが《妖精》《群れ》《村》《国民国家》《グローバル》ではなくて、《孤児》である。

鑑賞構造が無い人格。

情報量が5である。
クリエイティヴではない。


 記者会見はお笑いとしては秀逸であったが、その人格を彦坂尚嘉の言語判定法で見る限りでは、読む必要性は認められないつまらない書き手と言うことになります。
 読みもしないで言うのは失礼なことではありますが、それが彦坂尚嘉の言語判定法による人相見の目的なのです。読む前に、顔で、読むにあたいするか否かを判定しようというのです。この田中慎弥を顔で見る限りは、古くて読むに値しません。母親と一緒にいて、自分はアルバイトもしないで小説だけ書いてきているというのも、母親に食わせもらっていた言うことでしょうか? ひどい話で、マザコンのお化けに過ぎません。こういう人物の小説に芥川賞を出すというのも、世も末と言うことです。
 これを機に、石原晋太郎が芥川賞の審査員を止めるというのは、良いと思います。






関連記事

ラヴォイ・ジジェク/近代における《孤児》 - 2012.01.20 Fri

今日のコンピューター時代には、逆に”野生の思考”への回帰が見られると、スラヴォイ・ジジェクは書いています(『幻想の感染』198頁)。
スラヴォイ・ジジェクというのは、スロベニア出身のポスト構造主義系の思想家、哲学者、精神分析家です。パリ第8大で、ジャック・ラカンの娘婿にして正統後継者であるとされるジャック=アラン・ミレールのもとで精神分析を学び、博士号取得していまあす。現在はリュブリャナ大学社会学研究所教授です。

スラヴォイ・ジジェクは、彦坂尚嘉の言語判定法で顔を芸術分析すると、下記のようになります。

Slavoj-Zizek-300x300.jpg


彦坂尚嘉責任の[スラヴォイ・ジジェクの顔]に対する言語判定法による芸術分析

アヴァンギャルドでは無い。
インサイダーである。(ジャックラカンの顔の分析では、ラカンはアウトサイダーです。同様にフロイトもアウトサイダーです。ジジェクの顔がインサイダーであるということが、機械的に悪いことではありませんが、しかし精神分析というものの創立者とは違うということなのです。それはラカンの精神分析が自明化されているところにもっとも良く現れています。)
伝統的人物である。
現代アート的である。(つまり伝統的な面をもつ現代人)

《想像界》の眼で《超次元》~《第51200次元》の《デザイン的人格》
《想像界》の眼で《第8次元 信仰領域》の《デザイン的人格》
《想像界》の眼で《超次元》~《第51200次元》の《デザイン的人格》

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ジジェクは、難解で晦渋知られるラカンの思想を、映画やオペラを素材に語ることで、現代思想界の寵児となった人物です。しかし、ハリウッド映画を使って、あたかも人生そのものであるかのようにすり替えて語る手法は、人間の人生そのものの不可思議なとらえどころのない曖昧さの問題を捨象していて、疑問があります。特に《現実界》という用語の使用は、ラカンそのものと違うと言うだけではなくて、『「テロル」と戦争──〈現実界〉の砂漠へようこそ』では、むしろ日常用語に近い使用をしていて、私は間違いであると思っています。『幻想の感染』でも、「バイトーあるいはむしろデジタルな連なりーが、スクリーンの背後にある《現実界》である」という使用の仕方にも、通俗性があります。この通俗性はジジェクの顔の分析に現れるデザイン性と深く関わっています。Googleのようなポータブルサイトにおける《現実界》は、単なるデジタル記号ではありません。Googleの《現実界》というのは「人類が使うすべての情報を集め整理するという壮大な目的を持って設立された。独自のプログラムが、世界中のウェブサイトを巡回して情報を集め、検索用の索引を作り続けている」という、このミッションにあるのです。コンピューターというのは思考機械であって、物質や記号ではないのです。ジジェクのコンピューターの理解は世俗的で、通俗で、それ故に面白くわかりやすく見えるものなのです。実際のジジェクの思考は幻惑的であるだけでなくて、根本にデザイン的な不透明さがあるのです。それはラカンをはじめとした哲学をコピーすることを基盤に組み立てたデザイン的な思考そのもののもつ不透明性です。ですから、ジジェクの思想に対して「多産な業績の割にはワンパターンとの評もある」と言われるのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》の4界がある多層的人格。
絶対零度/固体/液体/気体/プラズマの2つの様態をもつ総合的な人格。

《シリアスな人格》である。《気晴らし人格》も同時にもっている。
《ハイアート的人格》と《ローアート的人格》の同時表示。

シニフィエとシニフィアンの両面をもつ人格。

理性脳と原始脳性の両面のある人格。

《透視的人格ではない》《原始平面的人格》
オプティカルイリュージョン的人格ではない。
【B級芸術】。A級人格では無い。

《原人格》が無い。
《人格》《反人格》《非人格》《無人格》《世間体の人格》《形骸》《炎上》《崩壊》の概念梯子がある。

《原-総合人格》ではない。
《総合人格》性はある。
ただし《反-総合人格》《非-総合人格》《無-総合人格》性は無い。

《原デザイン的人格》《デザイン人格》《非デザイン人格》《無デザイン人格》《世間体のデザイン人格》・・・の概念梯子がある。

《原大衆人格》《原イラストレーション的人格》《原シンボル的人格》の概念梯子が無い。

《原-装飾的人格》《装飾的人格》・・・の概念梯子が無い。。

《原-工芸的人格》《工芸的人格》が無い。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

《真性の人格》ではない。《キッチュな人格》

人格の意識の大きさが《妖精》《孤児》《群れ》《村》《国民国家》ではないて、《グローバル》である。
しかし《地球のマグマ》や、《宇宙》、さらには《宇宙ー外》というものではない。

鑑賞構造がある思想家ではない。

情報量が1000である。
クリエイティヴではない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
スラヴォイ・ジジェクが、今日のコンピューター時代には、逆に”野生の思考”への回帰が見られると書いているのは、
”野生の思考”というのは、具体的に「野蛮人」というような差別用語的な行為をしたり、
実際に入れ墨をしている人が増えているとか、ピアスを過剰に付けている人などには、こうした現象のことを言っています。
ホームレスの登場のこの範囲に入るわけであって、定住しないで野宿をしているというのは、未開段階への退行現象であると言えます。

しかし、何故にコンピューター時代には、「野生の思考」への回帰が生まれるのでしょうか?
その理由については、ジジェクは説明していません。

『野生の思考』というのは、フランスの文化人類学者のレヴィ・ストロースの著作の題名です。
1962年に発表されて大きな影響を与え、構造主義の勃興を生み出した名著であります。

私の言語判定法をつかって見えてくるものも、その多くは構造主義の構造の延長だと考えられます。
たとえば《超次元》~《第51200次元》までの階層というのも、実は《構造》なのです。

つまり彦坂尚嘉の芸術分析は、ジャック・ラカンの構造主義的な精神分析の延長性の上にあるものです。
それはですから『野生の思考』性をもっているのです。

レヴィ・ストロースというのは、ブラジルの先住民の研究を行い、さらにアメリカ先住民の神話の研究を行ったのです。友人にはシュルリアリズムのブルトンなどがいます。つまりブルトンなどのシュールリアリズムとは、構造主義は無縁の思想ではなかったのです。この場合、日本人が「シュルリアリズム」と聞くと、ダリやエルンストなどのイメージ主義のペンキ絵を思いますが、ブルトンが推し進めたのはアンドレ・マッソンの絵画であり、それがポロックの絵画を生み出していきます。

「野生の思考」というのは、文明以前の自然採取段階の”科学的な思考”とも言えるものです。それはブリコラージュと呼ばれる、ありあわせの材料を用いて、必要なものを作るような思考法です。比喩による思考方とも言えます。それは眼の前まえにある事柄を理解しようと努力する時に、その事柄と別の事柄との間にある関係、あるいは関係への関係に注目して、それと類似する関係性を有す別の事象群を連想して、その別のもの比喩とすることで、目の前の事象を再構成する思考方です。

Photshopのレンズ補正の機能を使って、画像に凸や凹のレンズ変形を与えることで、人格の大きさを画像化して、それに言語判定法で、言葉を対応させる。こうした手法は類似関係をつかった類比によって構造を析出して分析しようとするものです。


こうして、Photshopを操作して生まれる事象に異なる意味を与え、新しい「構造」を生み出せるのです。それは理論と仮説を通じて考える科学的思考と基本的に同質なもので、両者の相違について科学的思考が用いるものが「概念」であるのに対して、野生の思考が用いるものは「記号」であるとレヴィ・ストロースは考えました。私が言語判定法を使って用いるのは「言語」なのです。

フロイトやラカンの精神分析は、疑似科学だという批判を浴びせられました。彦坂尚嘉の芸術分析に関しても、同様の批判はありますが、科学的手法そのものが、人類史の中で違うリテラシーをとって現れてきているのであって、疑似科学だという批判は、必ずしも「だから駄目である」という結論にはならないのです。今日のアーティストやアートの芸術分析を、そのアーティストの人格の大きさを対象化して考えるというのは、極めて独創的な視点であり、その成果は、以後に述べるように興味深い者があります。

”野生の思考”への回帰という現象は美術作品にも顕著であって、1980年代にはいると具象への回帰として出現しています。
つまり抽象美術の時代が終わって、イラストまがいの作品が登場してくる背景にはコンピューターによるデジタル時代への移行が大きく関与していたと考えられます。

しかし作品上に現れてくるだけでは無くて、人間一人一人の自我の構造や大きさにも、このような野生時代への回帰が現れてきているのです。
つまり人格の大きさが、《国民国家》の大きさではなくて、《村》や《群れ》の大きさ、さらには《孤児》の大きさになってきていて、
かつての美術にあった公共性が失われてきているのです。

しかしこういう風に現在の状態だけを語って見ると見損なう問題が有ります。
つまりアーティストの人格が小さくなって、社会性や公共性を失ったのは、実はコンピューターが登場する前からあったのです。
このことを見ないと、現在を理解するのに不十分です。
次回はモダンアーティストの人格の大きさについて論じます。
関連記事

ストライキ!/ウィキペディアの抗議行動 - 2012.01.19 Thu

ウィキペディアやグーグル閉鎖、

     米海賊防止法案に一斉抗議


2012.01.19 Thu posted at: 09:53 JST

閉鎖された英語版ウィキペディア(提供:Wikimedea)
(CNN) インターネットの百科事典サイト「ウィキペディア」や検索大手の米グーグルなどは18日、米議会で審議されている「オンライン海賊行為防止法案(SOPA)」に抗議して、サービス停止などの抗議活動を展開した。同法案をめぐっては、推進する立場のメディア業界と、反対するインターネット業界との間で全面戦争の様相を呈してくるなか、議会の審議にも影響を及ぼし始めた。

ウィキペディアの英語版は同日午前0時からホームページを白黒の抗議画面に切り替え、「自由な知識のない世界を想像してみてください」とするメッセージを掲載。「私たちは10年以上の歳月をかけ、人類史上最大の百科事典を構築してきました。今現在、米国議会は自由でオープンなインターネットに致命傷を与えかねない法案を審議しています」と述べ、24時間のサービス停止を行うと宣言した。

SOPA法案はインターネットの著作権侵害防止を目的として米下院に提出された。上院の委員会も同様の内容の「知財保護法案(PIPA)」を昨年5月に了承。しかしこの両法案をめぐり、推進する立場のメディア業界と、強く反対するインターネット業界が全面的に対立している。

グーグルは同日、米国版のホームページのロゴを黒い帯で覆い隠し、「ウェブ検閲」に反対の声を上げるようユーザーに呼び掛けた。交流サイト大手の米フェイスブックもマーク・ザッカーバーグ最高経営責任者(CEO)の声明を掲載、「熟考されていない法案にインターネットの発展を妨げられるのは許せない。フェイスブックはSOPAとPIPAに反対し、インターネットを害するいかなる法案に対しても反対を続ける」とした。

ほかにも掲示板サイト「クレイグリスト」など米国の大手サイトが、ウィキペディアと同様にサービスを停止して抗議ストを展開している。

一方、SOPAを支持するメディア大手米タイム・ワーナーや米映画協会(MPAA)などの団体は、インターネットの海賊行為によってコンテンツの制作者が収入を奪われ、失業を招くと主張。法案の目的は犯罪行為を阻止することにあり、検閲には当たらないと反論している。

しかしインターネットネット業界が反発を強める中、議会にも影響が広がりつつある。18日にSOPA法案について公聴会を開く予定だった下院の委員会は、同法案の条項がインターネットに及ぼす影響について調べるため、日程を延期した。


私自身は、ウィキペディアやグーグルを断固指示します。ウィキペディアやグーグルに対する批判や懐疑は日本にもずいぶんあって、私も直に聞いていますが、それは保守主義であって、間違いであると私は思います。
関連記事

菊竹清訓氏が死去  - 2012.01.15 Sun



日本を代表する建築家、菊竹清訓氏が死去 83歳 

建築運動「メタボリズム」をリード
 
 
2012.1.5 13:01

建築家の菊竹清訓氏(奈須稔撮影)

 日本を代表する建築家で、建築運動「メタボリズム」をリードした菊竹清訓(きくたけ・きよのり)さんが昨年12月26日、心不全のため死去していたことが5日、分かった。83歳だった。葬儀は親族で済ませた。後日お別れの会を開く予定。

 福岡県久留米市出身。早稲田大理工学部建築学科在学中から競技設計(コンペ)に入選するなどして頭角を現し、卒業後は竹中工務店などを経て、昭和28年に独立。33年完成の自邸「スカイハウス」(東京)で注目を集めた。その後、建築家の故黒川紀章氏や建築評論家の川添登氏らとともに新しい建築運動「メタボリズム(新陳代謝)」を提唱。「建築及び都市は、新陳代謝を通じて成長する有機体でなければならない」などと説いた。38年完成の「出雲大社庁の舎」(島根県)では芸術選奨文部大臣賞、日本建築学会賞を受賞し、高い評価を得た。

 代表作に、大阪万博エキスポタワー(昭和45年)、沖縄国際海洋博アクアポリス(同50年)、銀座テアトルビル(同62年)、江戸東京博物館(平成5年)、ホテル・ソフィテル東京(同6年)、九州国立博物館(同17年)など。平成17年の愛知万博では総合プロデューサーを務めた。

 日本建築士会連合会名誉会長。昭和51年から産経新聞「正論」執筆者。「代謝建築論」「海上都市」「日本型建築の歴史と未来像」など著書多数。
関連記事

福島アートの新展開 - 2012.01.15 Sun

建築評論家の五十嵐太郎氏の撮影した写真を提供していただいて、彦坂尚嘉の福島アートの新作ができました。明日16日に再び南相馬に行くこともあるので、ご紹介します。

彦坂5-1気仙沼に乗り上げた共徳丸ブログ




彦坂女川191ブログ



彦坂女川屋上のクルマブログ




関連記事

若いアーティストに向けて - 2012.01.13 Fri

続きはブロマガを購入して楽しもう!
このコンテンツはブロマガ(有料)です。
購入すると続きをお楽しみいただけます。
ブロマガって何?

YMOとリザード(東京ロッカーズ・シリーズ1) - 2012.01.09 Mon

YMOの最初のシングル『テクノポリス』が登場したのは1979年でした。



当てることを重視するのなら、《第6次元 自明性領域》だけの単層で、デザインの音楽にした方が良いのでしょう。それを実現したのは、イエローマジックオーケストラでした。

YMOの『テクノポリス』と同じ1979年のもう一つのバンド、それがリザードでした。パンク・ロックでありながら、キーボードやシンセサイザー、ヴォコーダー等の電子機器を駆使したテクノポップ寄りのニューウェイヴサウンドであったのです。その意味で、同じ1979年のYMOとリザードを、テクノポップの共通性で聞き比べてみる値打ちはあるのです。

リザードの音楽には、《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》の全概念梯子があったのです。」YMOはデザインにすぎませんが、リザードの音楽は《真性の芸術》であったのです。




リザードは1980年前半頃にレコードを買っていました。初期は『紅蜥蜴』と名乗っていたのですが、これも買っています。

この時代の日本のロックを上手いとは言えませんが、しかし重要な表現はこの時代に既にされていたと思います。彦坂尚嘉的に言えば、それは《超次元》~《第51200次元》まであるトータルな多層性の表現です。だからこそ下手に聞こえるとか、あるいは当たらないとも言えます。













YMOの《第6次元 自明性領域》の単層でしかもデザインの音楽の大衆性と、リザードの絶望的にまでマイナーな《超次元》~《第51200次元》の多層表現、この分裂の空虚な状況が日本なのです。絶望的な状況の中で、果敢に戦ったのが、東京ロッカーズでした。

関連記事

セックスレスの話・加筆2 - 2012.01.09 Mon

そもそも仏教では、僧侶はセックスから脱しようとします。

同様にキリスト教でも牧師や神父はセックスを断とうとします。

つまり世界宗教では、セックスレスを理想とするのです。

それは性にとらわれる愛欲の世界の外部に超出しようとしたからだろうと思います。

そういう意味で、今日のセックスレスの蔓延的な状況は、
人類の理想的な進化であり、すばらしいことなのかもしれません。

今日の状況を肯定的に評価して考えても良いのかもしれないのです。
関連記事

セックスレスの若者(加筆1) - 2012.01.08 Sun

セックスレス亡国論

私の周りにも、多くの独身者がいるのですが、現在の日本のセックス事情というのは、ずいぶんと深刻なものになってきているようです。昨年11月のやや古い記事ですが見つけたので、ご紹介します。


■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
情報出典:CNN.co.jp
http://www.cnn.co.jp/fringe/30004742.html

2011.11.29 Tue posted at: 16:47 JST

香港(CNN) 少子高齢化の問題が深刻化する日本で、異性に関心を示さない若者が増えている。

先週発表された調査では、
未婚男性の6割以上に女性の交際相手がいないことが分かった。

国立社会保障・人口問題研究所が18~34歳の未婚者を対象に実施した調査によると、「交際している異性がいない」と答えた人は男性の61%余りを占め、2005年の前回調査から9.2ポイント増加。女性は約50%だった。さらに、

交際相手のいない男女のうち45%が、異性との交際を特に望んでいないと答えた。


また、30代後半の未婚男女の4人に1人は、セックスの経験がないことが分かった。

未婚者のうち男性の86%、女性の89%がいずれは結婚したいと答えた。結婚していない理由としては、40%以上が経済的不安を挙げた。

今年初めに発表された日本家族計画協会による調査では、16~19歳の若者1 件のうち、セックスに「関心がない」「嫌悪感がある」と答えた男性は08年から19ポイント増えて36%女性も12ポイント増えて59%に達した。恋愛やセックスに興味を示さない「草食系」の若者が増加しているとの説を裏付ける結果となった。

日本は出生率が1.34と世界の中でも非常に低く、一方で5人に1人が65歳以上という高齢社会だ。日本経済団体連合会は出生率を上げようと、3年前に会員企業1600社に対し、既婚の従業員を早めに帰宅させる配慮を求めた。しかし調査結果のデータをみる限り、状況は改善されていないようだ。


【加筆】1960年代のポルノ解禁の時代を体験してきた者としては、《性の解放》ということが、
「セックスレス」に結果するとは思いませんでした。

「セックスとはコミュニケーション」という主張をする若い人にも違和感を覚えたのは10年ほど前だったような気がします。言うまでもなくセックスは、人間だけではなくて、有性生殖をする生物に共通するものであって、その目的は、子孫を残すことにあります。それ以外の目的はないのですね。
 
 子孫を残すことを人生の目的として考えなくなった人々が増えてきたというのも、人間観そのものの変貌であって、たいへんな事のようにも思えますが、実際には人類全体は増殖し続けているので、その爆発的な増加を抑制する機能が働いているだけのことであって、たいしたことではないとも言えます。

 経済的な理由で結婚できないというのも理解はできますが、就職ができたり、作品が高額で売れるようになったりして収入が安定した友人たちが、それでも結婚していないのを見ると、経済的な理由だけではないとも言えるようです。

 情報化社会、あるいは高度消費社会というのは、ローマ帝国の末期症状に似ていて、倒錯した価値観に浸され、滅亡していく過程なのであって、そう考えればセックスレスで、日本の新しい生命が生まれなくなっていくのも、その程度の滅亡の過程を歩んでいることに過ぎないので、凡庸な事だとも言えます。人類史を見れば民族の滅亡というのも、ありふれたことに過ぎないのです。

 しかし、そう簡単には滅亡もしないので、時代がかわれば、またセックス観も変わるでしょう。その過渡期の現象なのでしょうが、自己愛性人格障害の進行が、このようなかたちでも蔓延していくことに驚きはあります。


関連記事

ジャンヌ・ドゥメッシューとエリック・サティ - 2012.01.08 Sun

ジャンヌ・ドゥメッシューというのはフランスの女性オルガン作曲者です。
1921年年生まれで – 1968年に亡くなっています。
この人の音楽は、彦坂尚嘉が今言っている《超次元》~《第51200次元》という多層性を良く表しているものですので、見て聞いてみてください。



ジャンヌ・ドゥメッシューの多層性に対して、エリック・サティは、単層性の世界を繰り広げます。

サティの音楽はドビッシーに大きな影響を与えて、モダニズムの音楽の一つの源流だと思います。しかし私にとっては、それ以上にエジプトに代表される文明そのものの発生が生み出した単層性を、よく示している音楽だと思います。



エリック・サティもフランスの音楽家ですが、1866年生まれで、1925年に死んでいます。つまりジャンヌ・ドゥメッシューの方が若くて、彼女が生まれてから4年ほどでサティは亡くなっているのです。

現在の日本でも、多くの人はサティのような単層的な音楽を好み、そして世界をこの様な単層性で見ているのです。安定して生きるためにはこの様な単層化は重要だと思いますので、私はこのような単純な視点を否定しているのではありません。
 しかし現在の3・11以降の世界は、経済崩壊も含めて、ジャンヌ・ドゥメッシューの音楽が示すような多層性が出現してきているのではないでしょうか?



あくまでも比喩ですが、人間の心的世界の全領域は、このオルガン演奏のように多層性であるのです。 次の演奏は本人の演奏です。ジャンヌ・ドゥメッシューは、大変優れたオルガン演奏者であったのです。



さて、もう一度サティを聞いてみましょう。サティの『胎児の干物』という題名の音楽です。
第1曲が、「ナマコの胎児」
第2曲が、「甲殻類の胎児」
第3曲が、「柄眼類の胎児」

サティは、フランス共産党に入党していた人物で、そういう意味でも近代の作曲家でありました。



多くの人は、外部世界を単層化して見ています。つまりサティの水準で物事を理解しようとするのです。そのために理解できないことや、悪や、汚いもの、複雑なもの、デリケートな差異を無視します。

最後に再びジャンヌ・ドゥメッシューの音楽です。多層性の世界を聞いて覚えてみてください。








関連記事

M.スコット・ペック/《孤児》の精神の限界と意味 - 2012.01.07 Sat

平気でうそをつく人たち


佐伯さんという方から、次の様なコメントをいただきました。


精神分析家と言えるかどうか分からないのですが、彦坂様が以前取り上げていたM.スコット・ペック医師の心的空間は《孤児》でしょうか?

「平気でうそをつく人たち―虚偽と邪悪の心理学」と「愛すること、生きること」を読んだのですが、
「愛すること、生きること」の中で、《孤児》のカール・ユングを肯定的に引用していたことを、このブログ記事を読んで思い出したのです。

非常に感動した本なのですが、もしペックも《孤児》であるとしたら、その意見は矮小で問題のある物なのでしょうか?それとも、《孤児》であっても優れた指摘をしているということもありうるのでしょうか?

つまらない質問ですが、何かお答えいただければ幸いです。




M.スコット・ペックというのは、ベトナム戦争時に9年間にわたって米軍に勤務した精神科医で、「愛と心理療法」で大ベストセラーになった人物です。

516lH7GUd0LSS500.jpg

死後の世界へ

このM.スコット・ペックの言葉をネットで探すと次の様なものがあります。


自分自身を大切にするようになるまでは、

自分の時間を大切にはしないだろう。

自分の時間を大切にするようになるまでは、

何も成し遂げることはできないだろう。


非常に正統な意見だと思いますが、ここにあるのは、私的な生命を重要に見る考え方です。

私自身は、佐伯さんと同様にM.スコット・ペックに感銘を受け影響された人間ですが、そこに、ある疑問をうっすらと感じてきていたことも事実であったのです。社会的に生きるということは、「自分の時間」を他人に売って、賃金労働者として働くことであるからです。つまり「自分の時間を大切にする」ということに固執すれば、就職はできなくなって、フリーターになって、さらには引きこもりになってしまうかもしれないのです。つまり社会人を生きるということは、自分の時間を大切にしたり、自分が何かを成し遂げるというようなことではないのです。

佐伯さんのご指摘に沿って、M.スコット・ペックの顔を見てみましょう。

PeckMScott.jpg

この写真が、いちばんM.スコット・ペックの傷ついている様を示している写真のように思います。写真で見ると、M.スコット・ペックの心的領域は《孤児》です。その意味でフロイト以来の精神分析の系譜の医師につらなる人物です。

彦坂尚嘉の芸術分析で、このM.スコット・ペックの顔を見ると、



心的な空間の大きさが《孤児》である人物。

アヴァンギャルドである。
伝統的文明人格ではない。
現代人である。(プラズマ状態に基盤をおく精神)

《想像界》の眼で《超次元》~《第51200次元》の《真性の人格》
《想像界》の眼で《超次元》~《第51200次元》の《真性の人格》
《想像界》の眼で《超次元》~《第51200次元》の《真性の人格》


精神分析や精神科医というのは、何よりも自分自身が傷ついていて病んでいるので、それを直そうとして医者になっているというものだと思います。

私自身がラカンに興味をもって勉強していったのも、私自身が、さまざまな不幸を背負っていて病んでいたからで、ラカンの思想やM.スコット・ペックの教えは、たいへん優れていて、私にとっては有効であったと思います。ですから、今も、両者を尊敬しています。

しかし、そのことと、ラカンやM.スコット・ペックの心的空間が狭くて《孤児》であると言うことは、別の事柄です。

peck.jpg

peck970602.jpg

peck-1.jpg

peckPhoto.jpg

フロイトと比較したウッドロウ・ウィルソン の顔をもう一度見てみましょう。この人の聡明で視野の広い《国民国家》の人格は、何故に成立しているのか?

ウッドロウ・ウィルソン

彦坂尚嘉の芸術分析で、このウィルソンの顔を見ると、



心的空間の大きさが《国民国家》である人物。

アヴァンギャルドでは無い。
伝統的文明人格である。
現代人ではない。(固体/前近代的人格に基盤をおく精神)

《想像界》の眼で《第1次元 社会的理性領域》だけの《真性の人格》
《想像界》の眼で《第1次元 社会的理性領域》だけの《真性の人格》
《想像界》の眼で《超次元》~《第51200次元》の《真性の人格》

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
まず、基本として《第1次元 社会的理性領域》だけの人物なのです。それに対してM.スコット・ペックの方は、《超次元》~《第51200次元》まである人格なのです。

《第1次元 社会的理性領域》だけに単層化した人格というのは、非常に安定しているのですが、《超次元》~《第51200次元》まである多層な人格というのは、非常に不安定で、深い闇におびえている傷ついた精神であるのです。

ウィルソンの場合、《現実界》は《超次元》~《第51200次元》あって、それはアメリカ大統領という世界最強の軍隊を動かす権力を握っているものの恐ろしさを秘めてはいるのですが、しかし《想像界》《象徴界》が《第1次元 社会的理性領域》の単層で、極めて安定しているが故に、《国民国家》の広い心的世界を持ち得ているのです。

石や煉瓦、木でもよいですが建築をつくって、雨風や外的をシャッターダウンして安全性を確保して、安心できる空間に生活する。こうした平和で安心できる空間の中で生活する快楽を当たり前のものとして長時間にわたって享受する。こうした生活状態が文明なのです。

こうした文明の生活を当たり前のものとして、幸せに生きている。しかもこうした安寧な生活を守るために掃除をし、そして病気や外敵の侵入阻止する守りを怠りなくやっている人物というのが、《第1次元 社会的理性領域》の人格なのです。

つまり《第1次元 社会的理性領域》だけの文明というのは、常に世界の汚濁に満ちた危険性を阻止して中に入れないような守りを固めています。

《第1次元 社会的理性領域》のエジプト的な芸術の目的とは、《第1次元 社会的理性領域》による《安寧》性の表現なのです。

ウィルソンの《国民国家》の広がりのある人格は、こうしたものとして形成されているのです。

しかしM.スコット・ペックのように9年間もヴェトナム戦争に従軍して、そこで戦う米軍の兵士たちの傷ついた心理と向き合ってきた人物は、《安寧》という様なものの中にいることができなかったのです。危険と不安に耐えて生きている者が見るのは、《超次元》~《第51200次元》の《死》と《生》の攻めぎあう不安定な恐怖に満ちた現実なのです。

《超次元》~《第51200次元》の人物の心理空間が、《孤児》や、《妖精》という形で、小さく狭くなるのは、文明という大きな共同体の《第1次元 社会的理性領域》の安寧の外部に出てしまっているからです。出てしまうと、自分自身を守る必要性から心的空間が狭くなるのです。

心的空間が狭くなる理由は、狭くすると守りが堅くなって、生に執着していくことができるからです。《孤児》は、自分の心的な生命を守ることに汲々としている面があります。《妖精》になると、永遠の生命を追及していて、完全なる個人主義者となります。

人間は生と死の攻めぎあいを生きていますが、心的空間を小さくすると《生》に固執し、逆に心的な空間を大きくして《宇宙》や、その外にまで拡大させると《死》への欲動を追求していくことになります。

M.スコット・ペックは、すぐれた精神科医で、すぐれた思想家だと思いますが、問題が有るとすれば、その《孤児》の狭さでもって問題を突き詰めすぎていることです。

『平気でうそをつく人たち』という本は刺激的で、隠された現実を告発しているすぐれた勇気ある本ですが、ウイルソン的な《第1次元 社会的理性領域》だけの単層の人格から見れば、《第1次元 社会的理性領域》という文明の単層生を生み出し、維持しているものこそが「平気でうそをつくこと」なのです。

エジプト文明以来の《第1次元 社会的理性領域》を成立させる文明そのものが虚偽と邪悪によって形成されているものであって、それを悪といっても始まらないというわけです。

その意味で、ウイルソン的な健康な精神から見れば、M.スコット・ペックはあまりにもまじめで、子供なのです。





















関連記事

フロイトと《孤児》性について(校正1) - 2012.01.05 Thu


ジャック・ラカンの心的な空間が、《孤児》であるという指摘を前回しました。
ラカンが高く評価したフロイトもまた、彦坂尚嘉の言語判定法によると、その心的な大きさは《孤児》であったのです。

ジークムント・フロイト
フロイトの心的空間の大きさは、彦坂尚嘉の言語判定法では《孤児》

《孤児》というのは、猿で言えば、《群れ》から脱落した「離れ猿」です。コリン・ウィルソン的に言えば『アウトサイダー』のことです。フロイトがアウトサイダーであったので、だから無意識を問題としたのです。

このフロイトと同じ1856年に生まれた人で見てみると、その一人がアメリカの28代大統領になったウッドロウ・ウィルソンです。ウッドロウ・ウィルソンの顔を言語判定法で見ると、《国民国家》の心的な大きさを示しています。逆に言うと《国民国家》の心的領野を持っている人は、このような顔をしているのです。
ウッドロウ・ウィルソン
アメリカ28代大統領ウッドロウ・ウィルソンの心的空間は《国民国家》

ウッドロウ・ウィルソンは連続2期を勤めた民主党大統領で、非常に優れた人でした。
政治学者でもあって、博士号を持つアメリカで唯一の大統領です。
進歩主義運動の指導者として1902年から10年までプリンストン大学の総長を務め、1911年から13年までニュージャージー州知事を務めた後、1912年の大統領選では、共和党はセオドア・ルーズベルトとウィリアム・ハワード・タフトの支持に分裂し、結果として民主党候補であったウィルソンが大統領に当選したのです。

フロイトとウッドロウ・ウィルソンを比べてみると、ウィルソンが聡明な知性のある広い視野の顔であるのに対して、フロイトの精神がおかしくて、異様な集中性をもっていて、意識の幅が狭い顔をしていることが見えると思うのですが、どうでしょうか。
フロイトとウッドロウ・ウィルソン
《孤児》             《国民国家》

ウッドロウ・ウィルソンの方が人間として健康です。フロイトは異常です。心的領域の大きさが《孤児》であるというのは、明らかに問題が有るのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

フロイトと同じ1856年に生まれたサー・ジョゼフ・ジョン・トムソンというイギリスの物理学者も、
《国民国家》の心的な大きさです。

サー・ジョゼフ・ジョン・トムソン
サー・ジョゼフ・ジョン・トムソンは《国民国家》


フロイトと同じ1856年に生まれた三省堂の創業者の亀井忠一の心的な大きさも《国民国家》です。

kamei_cyuichi.jpg
亀井忠一は《国民国家》


同じく浅井忠もフロイトと同じ年に生まれている画家ですが、《国民国家》の大きさの人格があります。

220px-Asai_chu.jpg
浅井忠は《国民国家》


つまりこの近代の国民国家に生まれた人々の多くは《国民国家》の心的な大きさであるはずなのですが、フロイトは《孤児》の心的大きさなのです。フロイトという人が、近代の国民国家の共同体から脱落して、精神に異常をきたしていたのです。だから、自分自身の異常性の克服として精神分析を発見し、推進したと言えると思います。

ジークムント・フロイト
フロイトの心的空間の大きさは、彦坂尚嘉の言語判定法では《孤児》


同じ年に生まれた精神分析者エミール=クレペリンの顔を見ても、この人も、彦坂尚嘉の言語判定法では《孤児》なのです。

エミール=クレペリン
精神分析者エミール=クレペリンの心的空間の大きさは《孤児》


フロイトと違う年に生まれていても、有名な精神分析家の顔を見ると、すべて言語判定法では《孤児》です。

カール・ロジャーズ
カール・ロジャーズは《孤児》

ユング
カール・ユングは《孤児》


アルフレッド・アドラー
アルフレッド・アドラーは《孤児》

ヴィルヘルム・ヴント
ヴィルヘルム・ヴントは《孤児》


メラニー・クライン
メラニー・クライン は《孤児》

Wilhelm-Reich1.jpg
ウイリヘルム・ライヒーは《孤児》

言い換えると、国民国家の時代に、この共同体の空間的な広がりから脱落した「離れ猿」のような人が、精神分析を始めていたと言うことになります。

つまり公的な世界よりも、私的な心理に注目するという形が、この精神分析の発生に見られるのです。

共同体の《国民国家》の空間から脱落してしまうと、さまざまな心的トラブルを生じるのです。フロイトの努力は真摯なものではありましたが、その原因は《孤児》という狭い心的領域そのものにあるのです。他の理由で探してみても、解決にならないのではないかと、私は思います。

しかしみんなと同じようにテレビドラマを見て、ラジオのつまらないディスクジョッキーを聞いていることに意味を見いださない人々が、出現してくるのです。多数派の感覚世界から脱落したときに出現してくるのが《孤児》の空間領域です。この《孤児》の心的領域は、内向的で、引きこもりであって、視野の狭さを含めて問題を多く抱えているものです。

繰り返すと、19世紀後半から20世紀にかけて、公共性と私的性が分裂していったのです。この事が同時に、モダンアートの発生に連動していくのです。


関連記事

第49回「ラカンと美術読書会」のご案内 - 2012.01.05 Thu

皆様

ラカンと美術読書会連絡係りの加藤 力と申します。
ご案内させていただきます
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
第49回「ラカンと美術読書会」のご案内

日時1月6日(金)18時30分 ~ 2時間程度
場所 立教大学(池袋) 6号館 6106研究室

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「ラカンと美術読書会」とは下記の2人が共催する読書会です。

彦坂尚嘉(日本ラカン協会幹事、立教大学大学院特任教授、日本建築学会会員、

美術家)
武田友孝(元・東京スタデオ、インデペンデント・キュレーター)

ラカン『無意識の形成物〈下〉』と、
月代わりで選出される美術本の読書会です。

2007年8月より月一回のペースで開かれています。
ごくごく初歩的な読書会で何方でも参加できます。
どうぞお気軽にご参加下さい。

テキスト
◎ラカンは『無意識の形成物〈下〉』 (岩波書店)
●美術はハーバーマス『近代未完のプロジェクト』(岩波現代文庫)

  参加費 無料(コピー代のみ実費で頂きたくお願いいたします)
テキストは特に準備なさらなくても、こちらでコピーを用意いたします。

※ 研究会は夕食時に重なりますので、
  各自はあらかじめ軽食や飲み物を 
  適当に用意して来て頂ければ幸いです。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
立教大学への一番楽な道

池袋駅西口方面へ
西口の階段は登らずに、
地下商店街の通路を歩きC3出口から立教通りへ
駅から歩いて行くと、左手に立教大学の正面のツタの生えたたてものの
正門が見えます。
右手にも、立教大学の門があります。
それを通り過ぎて、最初の小さな道を右に曲がると、
左手に6号館の建物の門があります。
建物に入ると守衛の部屋があるので彦坂の所に行くと言って下さい。
研究室は6号館の6106です。

分からなければ、彦坂の携帯に電話して下さい。
090-1040-1445
研究室の電話
03-3985-6106

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
詳しい行き方は以下よりお願いします
立教大学のサイト
http://www.rikkyo.ac.jp/
一番上のバーに交通アクセスがあります。

ページ中程に池袋キャンバスへの道順が、あります。
http://www.rikkyo.ac.jp/access/pmap/ikebukuro.html

キャンバスマップがあります。
http://www.rikkyo.ac.jp/access/ikebukuro/index.html
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
申込・問合せ先:加藤 力(美術家、臨床美術士)
           E-mail:sp5g7d99@axel.ocn.ne.jp          
           FAX:0467-48-5667
関連記事

絵画コンクールに見る《孤児》空間の受賞の1例 - 2012.01.03 Tue

美術作品においての心的な空間の大きさは、
作品そのものの空間と密接に結びついているので、
重要なのです。

つまり心的な空間が小さな人の作品は、小さいのです。
ですから伝統的には、空間の大きな作家の作品を良いものとされて来ましたが、
《孤児》とこのブログで呼んでいるような、小さな心的領域が社会的な比重を大きくして、
美術制度のなかでも、美術展の審査員や、学芸員、館長クラスでも、《孤児》の人が増えてきています。
続きはブロマガを購入して楽しもう!
このコンテンツはブロマガ(有料)です。
購入すると続きをお楽しみいただけます。
ブロマガって何?

《孤児》/人格の大きさをめぐって(3)ラカン - 2012.01.03 Tue

l13294584203_1801.jpg



白蓮さんから、次の様なコメントを頂きました。

個人的にその人間の心の大きさが【孤児】だと考えると合点がいく例がいくつかありました。
そしてそういう人物が割りに高い地位についている現象もいくつか見てきました。
所謂、お山の大将的な人物ですね。

岡本太郎の奇妙に芝居がかった表情からラカンを連想しました。
http://www.youtube.com/watch?v=4gxoxP-4Bpk
というのはラカンの喋り方にも相当芝居がかったものを感じたからなのですがこれが何に由来する物なのか不思議で心に引っ掛かっていました。
以前彦坂さんが指摘していたようにラカンが古い意識の人だからなのか ?
あるいはラカンも【孤児】的な要素のある人なのか ?
興味は尽きないです。

その人物の心的空間の大きさという視点での言語分析をラカンに対しては、していませんでしたので、白蓮さんのご指摘は盲点を突かれるものでした。しかし心当たりはあるというか、たしかにラカンのしゃべり方はヒットラーを連想するようないようなものでした。そしてまた数式や図式の使用による難解さは、とても理解できる代物では無くて、これも異様なものでした。





一人の人物の心的な空間の大きさを判断する方法は3つあると思います。

一つは科学的な方法で、心理テストをやってデーターをとる方法です。
しかしラカンはすでに亡くなっていますし、それにそうしたテストに協力してくれるとも思えません。

もう一つはイメージで、その人物の心的空間の大きさを測るやり方です。イメージ判定方です。

三つ目が、彦坂尚嘉が開発した、言語判定法で、言葉を対象にたいして投げかけるという方法です。

まずは、イメージ判定方を試みてみましょう。
ヘーゲルと、ラカンの顔のイメージを比較して、その心的な大きさを見てみます。

ラカンとヘーゲル

一方が絵画ですので、イメージでの比較というのも、その精度は曖昧さが残ります。両方のデターが同じように写真だったからといって、その比較が、明晰性を増すわけではありません。
マルクスと比較してみます。

ラカン・マルクス


彦坂尚嘉の言語判定法ですと、ヘーゲルの心的空間の大きさは《《宇宙》の外部》という言葉に対応する大きさです。《宇宙》の外部というのは、わかりやすく言えば《死》ですね。《死》の世界から、この世を眺めて思索した哲学者がヘーゲルであったのです。

これをPhotshopで作成した画像に置き換えてみます。

《宇宙の外部》
ヘーゲルの心的空間は《宇宙》の外部
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



ラカンの心的空間は、彦坂尚嘉の言語判定法では、白蓮さんのご推察のとおり《孤児》の大きさでした。

《孤児》
ラカンの心的空間は《孤児》の大きさ

ラカンとヘーゲル

《孤児》と《宇宙》の外部

ヘーゲルとラカンを比較して心的空間を考察すると、実は時代の変貌の中で、人間の空間意識が大きく変わってきているという構造的変化が、垣間見えます。

次回は、フロイトを見てみたいと思います。













関連記事

NEW ENTRY «  | BLOG TOP |  » OLD ENTRY

ブロマガ

月刊ブロマガ価格:¥ 6400

紹介文:

ブロマガ記事一覧

ブロマガを購入する

購入したコンテンツは、期限なしに閲覧いただけます。

プロフィール

New HIKOSAKA 彦坂尚嘉

Author:New HIKOSAKA 彦坂尚嘉
彦坂 尚嘉(ひこさか なおよし、1946年6月26日 - )は、 美術家。立教大学大学院特任教授。日本建築学会会員。日本ラカン協会会員。気体分子ギャラリーを主催。

【著書/出版】『反覆/新興芸術の位相』(74年、田畑書店)、『死に対抗する力』(91年、ギャラリーKURANUKI)、『リノメランコリア』(94年、岡部版画工房)、共著『リベーションの現場』(05年、彰国社)、共著『メディアと精神科医』(05年、批評社)。共著編『皇居美術館空想』(08年9月朝日新聞社)。『彦坂尚嘉のエクリチュール』(08年、三和書籍)、共著『3・11万葉集 復活の塔』(2012年、彩流社)

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

未分類 (85)
6次元アートの限界 (0)
ポストモダンのアメリカ美術 (11)
気体分子ギャラリー (34)
アートスタディーズ163万8400次元 (97)
映画 (31)
日記 (54)
音楽 (84)
海外の《超次元》アーティスト (4)
訃報 (4)
《第6400次元》真性の芸術 (5)
喜劇 (3)
彦坂尚嘉 の作品 (15)
状況と変動 (134)
告知 (81)
作品の発表 (6)
美術系ラジオ (33)
顔 (6)
人間の研究 (35)
芸術分析 (22)
皇居美術館 (0)
自殺 (2)
アニメーション (2)
味覚 (0)
歴史 (3)
復刻:『美術評論』 (1)
独裁者 (1)
第51200次元 (1)
建築系美術ラジオ/建築系美術ラジオ (3)
建築 (6)
美術テレビジョン (4)
オークション (53)
ギャラリーショップ (0)
ウェブショップ (1)
絵画論 (3)
固体の美術 (1)
特上のラップ (3)
異端美術研究会 (1)
アート論 (3)
反復-2007 (0)

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。