Aさんの個人的リクエストによる芸術分析(2 加筆2) - 2011.11.14 Mon
Aさんの個人的リクエストによる芸術分析の続きです。
Photshopで、画像操作をして、相対化を見せながらのレクチャーです。たいへんに微妙なものなので、私が問題にしていることのデリケートさは示し得ていると思いますが、そうした繊細さは、《第6次元 自明性領域》の人は嫌だと思います。
私は厳密さを追いかけているのですが、多くの人は、それは嫌だし、そういうデリケートさを問題にしてはくれません。しかし美術や芸術はデリケートなものなのだと私は思います。
レオナルド・ダ・ヴィンチが、先生のヴェロッキオと共作で描いた『キリストの洗礼』(1472 - 1475、ウフィッツィ美術館蔵)の絵を見ると、ヴェロッキオに比較して、ダ・ヴィンチがいかに繊細さかが分かります。繊細さとか、微細さを見分けることは重要なのです。
しかし《第6次元 自明性領域》の人々は、荒っぽいのです。それを非難しているのではありません。私は《第6次元 自明性領域》に生きる普通の庶民を尊敬しますし、尊重するものですが、しかし《第6次元 自明性領域》の人々は、弾圧してくるのです。
小沢一郎を、菅直人や日本の検察や司法などの官僚が憎悪して、執拗に弾圧するように、さらには橋下徹を弾圧するために『週刊新潮』や『週刊文春』がモラルを超えた暴露記事を掲載していくように、弾圧を繰り返します。小沢一郎にしても橋下徹にしても、《超次元》?《第6400次元》もある多層の人格で、たいへんに優れている人物です。日本社会を情報革命に対応して、革命をなそうとすれば、有能性を発揮する天才政治家なのです。そして世評とは逆に、たいへんデリケートな人格なのです。不安定と言ってもよい人格であって、その事が多くの誤解を生みます。
しかしここに《第1次元 社会的理性領域》の文明に内在する本質が有ると思います。《超次元》?《第6400次元》の天才の人々を、文明というものは《第1次元 社会的理性領域》の単層性を重視する故に、排除するのです。《第1次元 社会的理性領域》の排除のシステムが、《第6次元 自明性領域》にも引き継がれている事を私は見ます。
私は、《超次元》?《第6400次元》の多層性を排除することが、エジプト以来の文明そのものの本質であり、原理であると、思うようになってきています。つまり文明というのは、排除と差別と粛正という荒っぽさを持っているものであるのです。
この凶暴な文明を破壊するのが、地震や津波、噴火、さらには天候の変化なのだと考えるようになってきています。つまり文明そのものは荒っぽいものであって、内在的には変革や革命をするのは、かなり困難なのだと思います。文明を壊すのは、大自然の圧倒的な暴力性なのです。
同様に、文明の内部の芸術は、実は荒っぽいものであって、正確には疑似芸術であるのだろうと思います。ですから、疑似芸術を重要視する日本の現代アート界というのは、正しい文明的な行動なのであると思います。
というわけで、文明の外部に出て、キリストが砂漠で神に出会うように、日本の美術界の外部に出て芸術の本質を見ようとする私の探求というのは、文明的にも日本の美術界にとっても不毛と言えるものなのです。私は自分が不毛なことをやっているという自覚はあります。社会通念的には無意味なことをやっているのです。
私の書くものを読むよりは、佐々木豊著『プロの美術家になる・泥棒美術学校』と言う本がありますので、こちらを一読することをお勧めします。
こちらの方が日本の現実には合っているのだと思います。
松井冬子、束芋、会田誠、やなぎみわ、町田久美、千住博、山本容子、絹谷幸二らが出ています。
日本の現代アートの大成功者ですが、これを泥棒美術学校という本で取り上げるところが日本的です。これこそが日本現代アート界のバイブルであります。この本は必読であります。
http://www.amazon.co.jp/プロ美術家になる-泥棒美術学校《実践編》-佐々木-豊/dp/4875861516
http://www.amazon.co.jp/泥棒美術学校-佐々木-豊/dp/4875860781/ref=pd_sim_b_1
日本の美術界は、泥棒美術学校なのです。
この本の主張に疑問を持たれる方が、かろうじて読み得るのが私の芸術論ではありますが、それはあまりにも少数派の世界なのです。
問題の本質は、少数派として生きるのか、文明の乱暴な多数派に同調して安定して生きるのか? という選択なのです。《同調バイアス》という偏見が、日本を覆っているのです。もっともそれこそが、《第1次元 社会的理性領域》の本質です。
しかし「赤信号みんなで渡れば怖くない」というのが、人間の生きる正しい道なのでしょうか?
事実を事実として認めて、赤信号は赤信号であって、渡ってはいけないというのがルールなのです。「泥棒美術学校」が芸術の本質ではありません。こうした日本社会のでの成功幻想の《同調バイアス》の外部にでることこそが、芸術の根本の原理なのです。事実の探求と、真理の探究を追いかけて少数者として生き、死ぬこと!。この愚行性こそが、アーティストの道なのです。
死は平等であって、だれもが死ぬのです。泥棒美術のアーティストもまた死ぬのです。泥棒美術家として死んで、何がおもしろいのでしょうか?
泥棒美術で良いとも言えます。
まあ、どちらでも良いのですが、人類の歴史の中にある名品を理解できることが、私には深い喜びなのです。そして生きる力が沸いてきます。それには、デリケートな感性がないと、名品と凡作を見分けることができないのです。ほとんどの美術品は、平凡な凡作に過ぎません。沢山の凡庸な作品の中に、奇跡のような名品が隠れているのです。これを見つける喜びというもののすばらしさが、私にとっての芸術の醍醐味なのです。
まあ、単なる芸術オタクの愚行であると言えます。
泥棒として生きるのか、愚者として生きるのか、難しい選択ではあります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
さて、笹山さんの作品の芸術分析の続きです。
コメントも笹山さんからいただいているのですが、それに触れるのは次回にします。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
《想像界》の眼で
《超次元》?《第3200次元》のデザインエンターテイメント
《象徴界》の眼で
《第8次元 信仰領域》のデザインエンターテイメント
《現実界》の眼で
《超次元》?《第100次元》のデザインエンターテイメント
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
もう一つ笹山さんの作品が「デザインエンターテイメント」であることです。
今日の日本の現代アート界では、デザインエンターテイメントの作品が高く評価されるという構造になっているので、日本主義の中で考える限りは、問題はありません。
彦坂尚嘉の芸術分析が意味することで言えば、デザインエンターテイメントであるというのは、個性的では無いと言うことです。私的表現を殺していることを意味します。
しかし、画像操作に限って言えば、PhotshopのCS2以降についているフィルター/変形/レンズ補正を使って、
「ゆがみ補正」を?11かけると、《真性の芸術》に変貌します。
真性の芸術
デザインエンターテイメントであると彦坂が判断するオリジナル作品
「ほんとかいな?」と思われるかもしれませんが、画像操作技術的には、これで真性の芸術に変貌します。
しかし現実には作家の社会の中での基本的な価値観に根ざす問題なので、そう簡単には、変化しないものです。
つまり芸術とデザインの差は、私的な表現を積極的に前に出していくのか、私的な面を殺していくのかという、そういう問題なのです。
社会を形成している基本は《第1次元 社会的理性領域》の単層性であって、これは「公私混同するな」というテーゼがあって、私性を殺すことを要求して来るものなのです。これに抵抗して戦わないと、私性の表現を押し出すことはできないのです。
Photshopで、画像操作をして、相対化を見せながらのレクチャーです。たいへんに微妙なものなので、私が問題にしていることのデリケートさは示し得ていると思いますが、そうした繊細さは、《第6次元 自明性領域》の人は嫌だと思います。
私は厳密さを追いかけているのですが、多くの人は、それは嫌だし、そういうデリケートさを問題にしてはくれません。しかし美術や芸術はデリケートなものなのだと私は思います。
レオナルド・ダ・ヴィンチが、先生のヴェロッキオと共作で描いた『キリストの洗礼』(1472 - 1475、ウフィッツィ美術館蔵)の絵を見ると、ヴェロッキオに比較して、ダ・ヴィンチがいかに繊細さかが分かります。繊細さとか、微細さを見分けることは重要なのです。
しかし《第6次元 自明性領域》の人々は、荒っぽいのです。それを非難しているのではありません。私は《第6次元 自明性領域》に生きる普通の庶民を尊敬しますし、尊重するものですが、しかし《第6次元 自明性領域》の人々は、弾圧してくるのです。
小沢一郎を、菅直人や日本の検察や司法などの官僚が憎悪して、執拗に弾圧するように、さらには橋下徹を弾圧するために『週刊新潮』や『週刊文春』がモラルを超えた暴露記事を掲載していくように、弾圧を繰り返します。小沢一郎にしても橋下徹にしても、《超次元》?《第6400次元》もある多層の人格で、たいへんに優れている人物です。日本社会を情報革命に対応して、革命をなそうとすれば、有能性を発揮する天才政治家なのです。そして世評とは逆に、たいへんデリケートな人格なのです。不安定と言ってもよい人格であって、その事が多くの誤解を生みます。
しかしここに《第1次元 社会的理性領域》の文明に内在する本質が有ると思います。《超次元》?《第6400次元》の天才の人々を、文明というものは《第1次元 社会的理性領域》の単層性を重視する故に、排除するのです。《第1次元 社会的理性領域》の排除のシステムが、《第6次元 自明性領域》にも引き継がれている事を私は見ます。
私は、《超次元》?《第6400次元》の多層性を排除することが、エジプト以来の文明そのものの本質であり、原理であると、思うようになってきています。つまり文明というのは、排除と差別と粛正という荒っぽさを持っているものであるのです。
この凶暴な文明を破壊するのが、地震や津波、噴火、さらには天候の変化なのだと考えるようになってきています。つまり文明そのものは荒っぽいものであって、内在的には変革や革命をするのは、かなり困難なのだと思います。文明を壊すのは、大自然の圧倒的な暴力性なのです。
同様に、文明の内部の芸術は、実は荒っぽいものであって、正確には疑似芸術であるのだろうと思います。ですから、疑似芸術を重要視する日本の現代アート界というのは、正しい文明的な行動なのであると思います。
というわけで、文明の外部に出て、キリストが砂漠で神に出会うように、日本の美術界の外部に出て芸術の本質を見ようとする私の探求というのは、文明的にも日本の美術界にとっても不毛と言えるものなのです。私は自分が不毛なことをやっているという自覚はあります。社会通念的には無意味なことをやっているのです。
私の書くものを読むよりは、佐々木豊著『プロの美術家になる・泥棒美術学校』と言う本がありますので、こちらを一読することをお勧めします。
こちらの方が日本の現実には合っているのだと思います。
松井冬子、束芋、会田誠、やなぎみわ、町田久美、千住博、山本容子、絹谷幸二らが出ています。
日本の現代アートの大成功者ですが、これを泥棒美術学校という本で取り上げるところが日本的です。これこそが日本現代アート界のバイブルであります。この本は必読であります。
http://www.amazon.co.jp/プロ美術家になる-泥棒美術学校《実践編》-佐々木-豊/dp/4875861516
http://www.amazon.co.jp/泥棒美術学校-佐々木-豊/dp/4875860781/ref=pd_sim_b_1
日本の美術界は、泥棒美術学校なのです。
この本の主張に疑問を持たれる方が、かろうじて読み得るのが私の芸術論ではありますが、それはあまりにも少数派の世界なのです。
問題の本質は、少数派として生きるのか、文明の乱暴な多数派に同調して安定して生きるのか? という選択なのです。《同調バイアス》という偏見が、日本を覆っているのです。もっともそれこそが、《第1次元 社会的理性領域》の本質です。
しかし「赤信号みんなで渡れば怖くない」というのが、人間の生きる正しい道なのでしょうか?
事実を事実として認めて、赤信号は赤信号であって、渡ってはいけないというのがルールなのです。「泥棒美術学校」が芸術の本質ではありません。こうした日本社会のでの成功幻想の《同調バイアス》の外部にでることこそが、芸術の根本の原理なのです。事実の探求と、真理の探究を追いかけて少数者として生き、死ぬこと!。この愚行性こそが、アーティストの道なのです。
死は平等であって、だれもが死ぬのです。泥棒美術のアーティストもまた死ぬのです。泥棒美術家として死んで、何がおもしろいのでしょうか?
泥棒美術で良いとも言えます。
まあ、どちらでも良いのですが、人類の歴史の中にある名品を理解できることが、私には深い喜びなのです。そして生きる力が沸いてきます。それには、デリケートな感性がないと、名品と凡作を見分けることができないのです。ほとんどの美術品は、平凡な凡作に過ぎません。沢山の凡庸な作品の中に、奇跡のような名品が隠れているのです。これを見つける喜びというもののすばらしさが、私にとっての芸術の醍醐味なのです。
まあ、単なる芸術オタクの愚行であると言えます。
泥棒として生きるのか、愚者として生きるのか、難しい選択ではあります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
さて、笹山さんの作品の芸術分析の続きです。
コメントも笹山さんからいただいているのですが、それに触れるのは次回にします。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
《想像界》の眼で
《超次元》?《第3200次元》のデザインエンターテイメント
《象徴界》の眼で
《第8次元 信仰領域》のデザインエンターテイメント
《現実界》の眼で
《超次元》?《第100次元》のデザインエンターテイメント
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
もう一つ笹山さんの作品が「デザインエンターテイメント」であることです。
今日の日本の現代アート界では、デザインエンターテイメントの作品が高く評価されるという構造になっているので、日本主義の中で考える限りは、問題はありません。
彦坂尚嘉の芸術分析が意味することで言えば、デザインエンターテイメントであるというのは、個性的では無いと言うことです。私的表現を殺していることを意味します。
しかし、画像操作に限って言えば、PhotshopのCS2以降についているフィルター/変形/レンズ補正を使って、
「ゆがみ補正」を?11かけると、《真性の芸術》に変貌します。
真性の芸術
デザインエンターテイメントであると彦坂が判断するオリジナル作品
「ほんとかいな?」と思われるかもしれませんが、画像操作技術的には、これで真性の芸術に変貌します。
しかし現実には作家の社会の中での基本的な価値観に根ざす問題なので、そう簡単には、変化しないものです。
つまり芸術とデザインの差は、私的な表現を積極的に前に出していくのか、私的な面を殺していくのかという、そういう問題なのです。
社会を形成している基本は《第1次元 社会的理性領域》の単層性であって、これは「公私混同するな」というテーゼがあって、私性を殺すことを要求して来るものなのです。これに抵抗して戦わないと、私性の表現を押し出すことはできないのです。
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