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《孤児》/人格の大きさをめぐって(1)東條英機と菅直人(加筆2) - 2011.12.31 Sat

芸術とは何か? をめぐって追及することは、実は文明とか、人間に対する認識を含んでいて、想像以上に難しい事でした。

人間の心の中は、鏡の世界のようであって、その鏡も一枚ではなくて、合わせ鏡で、3面鏡や4面鏡になっているのです。
つまり心の中にある複数の鏡が鏡がお互いを映すので、複雑に組み合わさって、まるで鏡の地獄のように深い構造をつくります。

 一人の人間の中に何枚の鏡があるのかというと、それは人によって違います。ジャック・ラカンは、人間には《想像界》《象徴界》《現実界》という三つの精神領域があると言っていますが、これが彦坂尚嘉が言う鏡面です。

 つまり《想像界》の鏡面は、外部をイメージだけで映す鏡なのです。

 《象徴界》というのは、外部世界を、言語だけで映し出します。もっともこれは正確な言い方ではありません。《象徴界》の鏡で映し出すと言うことが、もうちょっと複雑で、なかなか説明できません。美術や建築作品では《質の善し悪し》を示していますが、その質というものがなんであるのかが、かなりむずかしいのです。
 
 わかりやすい例で言うと、安藤忠雄は、《想像界》と《現実界》では超一流の建築家ですが、《象徴界》では《第8次元 信仰領域》の建築家と、彦坂尚嘉の言語判定法では出るのです。つまり彦坂尚嘉の言語判定法で見ると、安藤忠雄は8流の建築家に過ぎないと見えます。
 
 話がずれましたが、もう一枚の鏡が《現実界》ですが、この言葉が指し示しているものが、一番むずかしいです。ラカンの用語としてもむずかしくて、普通の言葉で「現実」と言っているものは、すべて《想像界》です。
 ニューヨークのツインタワーに飛行機が突っ込んで、さらにビルが崩壊しましたが、ああいう想定外の現実の出現が《現実界》であるとラカンは言っています。今回の東日本大震災によって出現したものの《現実界》であったのです。

 彦坂尚嘉が言っている《現実界》は、ラカンの言うものよりもさらにむずかしいものです。たとえば建築作品を見たときに、《現実界》というのは図面の線で描かれた世界です。実際の建築を見ていても、建築家の眼は、図面でその建築を見ています。絵画の場合も、閉じられた黒い輪郭線だけで描かれたものが、《現実界》です。つまり普通の意味で現実というだろうキャンバスや絵の具という物質の事ではありません。
 
 この《想像界》《象徴界》《現実界》という性格の異なる3面鏡が、お互いを映しあって鏡の地獄の仮想世界を作り出すのです。今日ではさらに《サントーム》という第四の鏡が登場しています。
 
 しかしすべての人に3界や4界があるのではないのです。人類史で言うと原始社会では《想像界》しかありませんでした。それは原始社会が残した美術作品を言語判定方で測定することで分かります。《想像界》だけしか無い場合には、複数の鏡が無いので、外部世界を映しだしても、複雑に映り込んでは行きませんので単層なのです。しかし原始美術を彦坂尚嘉の言語判定法で見ると《超次元》~《第6400次元》までのすごい数の世界です。この複雑性はなんなのでしょうか? 《想像界》というもの自体が、最初から複数の鏡で出来ていたのだと考えられます。
 
 エジプト美術になると《象徴界》だけになり、しかも《第1次元 社会的理性領域》だけの単層の美術が圧倒的な数になります(例外的に《超次元》~《第6400次元》の美術もあります)。なぜにエジプトになると《象徴界》が登場するのかというのは、書き言葉による記録の登場が大きいのだと思います。

 《現実界》が登場するのは、日本美術史でいうと鎌倉時代の運慶の仁王像です。西洋美術史ですとルネッサンスのレオナルド・ダ・ヴィンチやラファエロの美術からです。
 
 つまり《想像界》《象徴界》《現実界》というものは、人類史の中で次第に登場してきたものであったのです。それだからだと思いますが、現在でも《想像界》だけしかない人々がいます。さらには《現実界》だけしかないように言語判定法では見える人もいます。


この人間の心的な大きさも、人によって、その鏡像世界の大きさに違いがあるのです。

この人間の心的な世界の大きさを、Photshopでつくることに挑戦してみました。

まず、日本の中にかなりたくさんいる《孤児》という、小さな人格の大きさです。

《孤児》
《孤児》

《孤児》の人は、想像以上に日本社会の中心部にいます。
彦坂尚嘉の言語判定法というのは、この「孤児」という言葉を、投げかけて探すのですが、たとえば、東條英機は、この《孤児》の大きさの人格でした。

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東條英機の心的世界の大きさは《孤児》

この東條英機の表情にある後ろに引いた感覚が、人格の小ささを示しています。《孤児》というのは、猿の群れで言えば、《離れ猿》なのですが、日本社会は、実は良く言われるように「村社会」ですので、《村》というのは、複数の《群れ》の集合なのですが、この集合体が、お互いに足の引っ張り合いをしている嫉妬関係の強い絆で結びついているために、強いリーダーを上に頂くことが出来ない構造なのです。だから離れ猿の《孤児》を、トップに据えて、御神輿(おみこし)に乗せるのです。

東條英機は、日本とアメリカの軍事力の差が、3000倍もあって非常に大きいと言うことを理解しないで戦争に動いていますが、このように全体の広がりや深さを把握しないで、非常に表面的な部分性だけに集中して動くという行動的な特徴があります。

《孤児》の人の人格は、心的な空間が小さいと言うだけではなくて、《想像界》だけしかない人格なのです。しかも《第6次元 自明性領域》だけの単層しかない人格です。


菅直人前首相の人格の大きさも《孤児》でした。

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菅直人前首相の心的世界の大きさは《孤児》

菅直人は小沢一郎の追い落としにすごい集中力を示しましたが、小沢一郎のようにグローバルな大きな人格を持つ人に対して、それを排除しようとする傾向は、他の領域でも見られます。

日本の敗戦を生み出したのは東條英機でしたが、日本の第二の敗戦を生み出した菅直人も、東條とよく似た人格の大きさを持っていたのです。二人のまなざしの小ささは、どこか似ていると見えるのは私だけでしょうか。

東條と菅
菅と東條

日本の社会というのは、おうおうにして、こうした《孤児》をトップに据えるのです。ですから《孤児》という小さな心的大きさを持つ人々は、奇妙にニセの社会性を持っています。つまり上手くすれば偉くなって、社会の御神輿に座って、トップの地位に就けるかもしれないからです。

加筆しますと、トップに立った《孤児》が大きな被害を出したれいとして東京電力の会長・勝俣恒久がいます。

勝俣 恒久
勝俣恒久の心的な大きさは《孤児》

勝俣恒久も彦坂尚嘉の言語判定法で、《孤児》と言う言葉を投げかけると反応がとれるということで見つけたのですが、もともと原発事故の時のニュースで「カミソリ」という異名をもって、恐れられたという報道と、その顔つきの異常さが印象的で、気になっていたのです。

もう一人追加しますと、オウム真理教の教祖・麻原彰晃です。

麻原

麻原彰晃

トップが、優れた人物では無くて、無能力で、社会性も、人格力も無い人であるというところが、日本社会の特徴なのです。
ですから、橋下徹のような、変革をめざす、心的領域がグローバルで大きい政治家に対しては「独裁者だ!」と非難して、追い落としをはかろうとするのです。

大きな人物を嫌うという日本社会の構造は、島国根性と言われるものだと思いますが、この民族の避けがたい構造のように思えます。

それゆえでしょうか、実は日本の芸術家には、この《孤児》の心的な大きさを持つ作家が多くいて、高い評価を得ています。その作品が本当に優れている芸術であるとは、私にはどうしても思えないのですが、そうしたものを日本人は好むのです。

音楽家で一人上げると、矢沢永吉です。
この人のニセの歌唱が、《孤児》の表現の本質を示しています。
アメリカのジョンソン大統領は「偉大な国家は、偉大な芸術を持つ」と1965年に出した宣言で署名していますが、日本は「偉大な芸術」ではなくて《矮小な芸術》を志向しているかのようです。矢沢永吉の歌には、そうした《矮小な芸術》に耽溺する自己陶酔があります。



日本の現代美術で、この矢沢永吉的な自己陶酔性と矮小さを持つ《孤児》の美術を上げるとすると、その代表は、岡本太郎の絵画でしょう。



060803_01.jpg
岡本太郎の心的な大きさは《孤児》
 
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岡本太郎作品の心的な大きさは《孤児》

岡本太郎の残したビデオを見ると、不自然なほどに演技していることが見えます。この演技性というのものとか、不自然性というのが、《孤児》の表現の特徴としてあります。



この矢沢永吉と、岡本太郎的な《矮小な芸術》を日本の芸術の避けがたい問題として引き受けながら、どのようにこの限界を突破するのか?
という課題が、私のこの文章の目的なのです。










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● COMMENT ●

個人的にその人間の心の大きさが【孤児】だと考えると合点がいく例がいくつかありました。
そしてそういう人物が割りに高い地位についている現象もいくつか見てきました。
所謂、お山の大将的な人物ですね。

岡本太郎の奇妙に芝居がかった表情からラカンを連想しました。
http://www.youtube.com/watch?v=4gxoxP-4Bpk
というのはラカンの喋り方にも相当芝居がかったものを感じたからなのですがこれが何に由来する物なのか不思議で心に引っ掛かっていました。
以前彦坂さんが指摘していたようにラカンが古い意識の人だからなのか ?
あるいはラカンも【孤児】的な要素のある人なのか ?
興味は尽きないです。

Re: タイトルなし

> 個人的にその人間の心の大きさが【孤児】だと考えると合点がいく例がいくつかありました。
> そしてそういう人物が割りに高い地位についている現象もいくつか見てきました。
> 所謂、お山の大将的な人物ですね。
>
> 岡本太郎の奇妙に芝居がかった表情からラカンを連想しました。
> http://www.youtube.com/watch?v=4gxoxP-4Bpk
> というのはラカンの喋り方にも相当芝居がかったものを感じたからなのですがこれが何に由来する物なのか不思議で心に引っ掛かっていました。
> 以前彦坂さんが指摘していたようにラカンが古い意識の人だからなのか ?
> あるいはラカンも【孤児】的な要素のある人なのか ?
> 興味は尽きないです。

白蓮 様

お久しぶりです。
読んでいてくださって、感謝です。

すごいご指摘ですね。

ラカンは、彦坂尚嘉の言語判定法では《孤児》でした。

私も納得します。
ご指摘通りに、多くの問題のある人です。

彦坂尚嘉


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プロフィール

New HIKOSAKA 彦坂尚嘉

Author:New HIKOSAKA 彦坂尚嘉
彦坂 尚嘉(ひこさか なおよし、1946年6月26日 - )は、 美術家。立教大学大学院特任教授。日本建築学会会員。日本ラカン協会会員。気体分子ギャラリーを主催。

【著書/出版】『反覆/新興芸術の位相』(74年、田畑書店)、『死に対抗する力』(91年、ギャラリーKURANUKI)、『リノメランコリア』(94年、岡部版画工房)、共著『リベーションの現場』(05年、彰国社)、共著『メディアと精神科医』(05年、批評社)。共著編『皇居美術館空想』(08年9月朝日新聞社)。『彦坂尚嘉のエクリチュール』(08年、三和書籍)、共著『3・11万葉集 復活の塔』(2012年、彩流社)

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