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中村亮一の絵画とエリック・フィッシェル/新しいキッチュとその普遍構造 - 2011.04.27 Wed

中村亮一の絵画とエリック・フィッシェル

         新しいキッチュとその普遍構造


N氏の作品を見て思い出すアメリカ作家は、エリック・フィッシェル( Erick Fischel, 1948-)です。下の画像は、エリック・フィッシェルの1980年代頃?の作品です。

Erick Fischel 101
エリック・フィッシェル

日本の有望?新人のN氏を批評できない以上、アメリカの画家の芸術分析をすることで問題の所在を考えようと言うのです。「できない」と書いたのは日本社会の中に具体的な禁止があって、書けば法律で罰せられるという事ではないのです。
 あるいは、私自身が批批評を書くと嫌われるという今日の空気に怯えてではないのです。
 そうではなくて、そもそも批評や藝術分析を必要としない世間体が一番重要な社会、つまり社会通念に従って制作され、社会通念にそって受け入れられる鑑賞界にあっては、批評や藝術分析をしても、その作家にも観客にも意味が無いという原理上の問題なのです。「うるさい! ほっておいてくれ!」と言われるだけなのです。そういう場合はほっておいた方が良いのです。

エリック・フィッシェル106
エリック・フィッシェル

そこで代替えを考えるのです。こういう手法は、頭脳警察というロックバンドのパンタ(中村治雄)という歌手がとった手法を模倣したものです。

パンタ
パンタ(中村治雄)


頭脳警察は1972年の最初のアルバムと2枚目のアルバムの中の3曲が、歌詞が過激という理由で発売禁止と放送禁止になっています。日本のロックはまるで共産主義の中国と同様の言論統制下にあったのです。この場合には、美術批評の提灯記事化という現象どころか、暴力的なまでの言論統制なのです。(現在は再発されて買えます)。その音楽性は、欧米のロックの模倣ではなくて、ホークソングを起点にしながらも、世界で一番早くにパンクロック性にいたっていいる創造性に満ちたものなのです。

頭脳警察1、2
頭脳警察 1、2。

さらに1992年にパンタは南京事件という日本軍の中国侵略の事象を歌おうとしたのですが、日本の文化の大政翼賛会な状況では無理と判断して、代わりにナチスのユダヤ人虐殺の歌詞で『クリスタルナハト』というアルバムをつくっています。これも歌詩の硬質性とメロディの緊張性があって非常に良いアルバムでして、私の愛聴盤になったのでした。

パンタ『クリスタルナハト』
パンタ『クリスタルナハト』


このように代替えで表現するという手法があるのですから、私もこの手法を使っていこうというわけなのです。つまり日本美術を論じるのではなくて、代用としてアメリカ美術と論じるという迂回を使って人間の文化の本質にあるキッチュの構造を問題にする。

Erick Fischel100
エリック・フィッシェル


しかし蛇足を言えば、この『クリスタルナハト』は良いアルバムでマニアには高い評価を得たにもかかわらず、一般的には、その政治性のある歌詞が嫌われたアルバムでした。つまり代替えをしようとも、言論統制的な信仰集団=日本の多くの人は、嫌なものは嫌なのです。この「嫌なものは嫌だ」という気持ちは、実は極めて重要で、日本の文化の根底にあるのだと思います。その事は、しかし私は認めなければならないのだと思うのです。

 パンタは多くの聴衆を獲得できず、そしてまた彦坂尚嘉も多くの読者や観客を獲得できない。であるとすると、代替え自体が意味が無いのではないのか? つまり、あらゆる意味で、福島原発事故以後の「Jアート/Jカルチャー」にか関わる事は無駄ではないのか? 理性的認識を欠いて「原発は絶対に安全である」と信じて、福島原発事故に至り、しかも初期の段階での手当をしないで致命傷に至るという人災の愚行以降は、私は基本的に日本社会への絶望からしか出発はできない気持ちなのです。一言で言えば「ばかばかしい社会」です。少なくとも理想の社会でも賢明な社会でもない。だとすれば、どうすれば良いのか?

eric-fischl107


日本社会や日本現代アートのキッチュを分析するではなくて、人類史としての現代美術/現代アートを藝術分析をしていく。つまり問題を日本という狭い群れの中で考えるのではなくて、普遍的な人類社会の内側で考える。そういう視点で考えるのならば、アメリカ美術を論じる方が生産性があるからです。つまりアメリカがベトナム戦争に破れて《近代》が一回目の終わりを迎えた1975以降の状況の中で台頭してくるキッチュを、全人類の精神史として分析する場合、アメリカ美術を論じる事は、アメリカ人やアメリカという国家の範囲を超えて、主題としても、普遍的人類史の立場で絵画を考える読者を獲得できる可能性があるのです。

つまり、このファシズムという国家社会主義の過去の伝統性をもつ社会である日本で、芸術の問題を考えようとすれば、《近代》という国民国家の枠組みを超えて、グローバルなコミュニケーションに可能性の地平を見る情報化社会における他者たち、という読者に向かって論じることによって、芸術は分析し語り得るのです。


というわけで、まずはEric Fischの絵画を、彦坂尚嘉の言語判定法という方法を使って藝術分析してみます。


彦坂尚嘉責任による[Eric Fischl絵画]の芸術分析


《想像界》の眼で《第6次元 自然領域》のデザイン
《想像界》の眼で《第6次元 自然領域》のデザイン
《想像界》の眼で《第6次元 自然領域》のデザイン


《想像界》だけの単層的な絵画。イメージだけの絵画。
液体状態=近代美術だけの作品。


《気晴らしアート》だけの絵画。《シリアス・アート》性は無い。
《ローアート》だけの絵画。《ハイアート》性は無い。
シニフィエだけの作品。つまり脳内リアリティだけの作品で、シニフィアン性がない。つまり表現の物質性に基礎をおく表現の展開性が無い。
理性脳だけの表現。原始脳の表現性が無い。


《原始平面》であって、《透視画面》性が無い。つまりフィッシェルの絵画は、《真性の絵画》ではなくて《ペンキ絵》である。

【B級美術】であって、【A級美術】では無い。

《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》《形骸》《炎上》《崩壊》の全概念梯子が無い。


《原シンボル》《原イラストレーション》《原キッチュ》《原デザイン》の概念梯子が有る。

《キッチュ》であって、《真性の芸術》では無い。

作品空間の意識の大きさが《近代国家》である。


《愛玩》《対話》《驚愕》《信仰》《瞑想》の鑑賞構造は、どれひとつも無い。

情報量が10である。
クリエイティヴでは無い。


このフィッシェルの絵画は、《第1次元 社会的理性領域》の芸術ではなくて、《第6次元 自然領域》の絵画であるという事が重要です。その事は同時に原始平面の絵画である事を意味します。原始平面の絵画には2種類があるのですが、その一つが《だまし絵》ですが、もうひとつは《ペンキ絵》というものです。

実はN氏の絵画もまた《第6次元 自然領域》の「ペンキ絵」であるのですが、このN氏の絵画とフィッシェルの絵画を比較すると、そこには違いはあるのでしょうか?
まず、画像を並べてみましょう。


中村亮一とフィッシェル



フィッシェルは、1980年代のアメリカのニューペインティングの大アーティストでした。その当時、私も面白いと思い惹かれました。しかし、その作品展開を見ていき、少し時間がたって振り返ると大画家ではなくて、、キッチュなペンキ絵の画家に見えます。実際にその絵画がいろいろなものを描いているにしろ、その中の重要な控訴としてのエロティシズムというのがあって、そのこととキッチュというものは深くに関わっているのです。しかしエロチエィシズムむの代わりに政治的なものであれ、宗教的なものであれ、あるいは感情的なものであれ、何でもよいのですが、幻想の刺激で表現を補強しているものがキッチュです。同様な構造はNの絵画にも言えますし、さらには同じ画廊の作家達にも言えます。「幻想の刺激」というのも分かりづらい言い方ですが、主題やテーマの文学性をもったイメージの刺激にたよって成立していて、絵画としての構造性が表面性しか無い《原始平面》の絵画なのです。

しかし刺激性を持った表現全てがキッチュであると定義すれば楽なのですが、そうではないというのが私の立場です。強い刺激があろうとも「ちゃんとしている」表現、つまり深い構造を持っている《透視画面》の絵画はキッチュではありません。たとえば、一見したところキッチュに見えるエリザベス・マーレーの絵画です。


しかし、この《原始平面》と《透視画面》ということも、理解するのにむずかしいのです。なぜならそれは単なる絵画の構造ではなくて、その絵画を描くアーティストの人格の問題だからです。《原始平面》を描くアーティストには人格が成立していなくて、肉体の表面に薄い性格が張り付いている原始精神の人物なのです。《透視画面》を描く画家には人格があって、それは深い構造を持っていて、肉体の奥深くまで精神が透徹していて、目そのものの輝きも力も違うのです。それは観客にも言えて、《原始平面》の絵画で満足する観客の性格は薄い精神性なのです。その精神の表面性がキッチュを好むのです。その辺を説明していこうと思います。


Erick Fischel 1


絵画の話をしたいのですが、その前に遠回りをして、彫刻を見ておきます。絵画の構造を理解するのが、素人の人には極めてむずかしいからです。フロイトは芸術に対して多く書いている人ですが、彫刻は理解できるが絵画は理解が困難であると書いています。絵画に比べると彫刻の善し悪しの方が、素人には分かりやすいのです。それは彫刻は3次元であるからです。それに対して絵画は2次元に、3次元を生きる人間のリアリティを記述する別の識字行為だからです。つまりその識字を学習しないと読解できないという外国語のような性格を持っているのです。とは言っても絵画と彫刻は実は深く関わっていて、西洋絵画の場合には、彫刻や建築という人工物を描いたものが絵画であるという一面を持っているのです。

というわけで、その逆の現象、つまり画家が彫刻を作ると言う事が、欧米の画家の場合に見られるのです。フィッシェルも彫刻も作っています。欧米の場合、絵画だけでは芸術家として不十分なのです。画家は彫刻も版画も、と言う調子で複数のものをつくる万能人がアーティストである資格なのです。画家が彫刻を作る時に、画家の水準が彫刻が露呈します。つまり良い画家は、良い彫刻をつくります。

Erick Fischel2

Eric Fischl, Ten Breaths: Tumbling Woman

Eric Fischl, Ten Breaths: Tumbling Woman2

彦坂尚嘉責任による
[Eric Fischl, Ten Breaths: Tumbling Woman]の芸術分析


《想像界》の眼で《第6次元 自然領域》のデザイン
《想像界》の眼で《第6次元 自然領域》のデザイン
《想像界》の眼で《第6次元 自然領域》のデザイン


《想像界》だけの単層的な彫刻。イメージの立体化したもの。
液体状態=近代美術だけの作品。


《気晴らしアート》だけの彫刻。《シリアス・アート》性は無い。
《ローアート》だけの彫刻。《ハイアート》性は無い。
シニフィエだけの作品。つまり脳内リアリティだけの作品で、シニフィアン性がない。つまり表現の物質性に基礎をおく表現の展開性が無い。
理性脳だけの表現。原始脳の表現性が無い。


《原始立体》であって、《透視立体》性が無い。つまりこの彫刻は、《真性の彫刻》ではなくて《人形》である。

【B級美術】であって、【A級美術】では無い。

《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》《形骸》《炎上》《崩壊》の全概念梯子が無い。


《原シンボル》《原イラストレーション》《原キッチュ》《原デザイン》の概念梯子が有る。

《キッチュ》であって、《芸術》では無い。

作品空間の意識の大きさが《近代国家》である。


《愛玩》《対話》《驚愕》《信仰》《瞑想》の鑑賞構造は、どれひとつも無い。

情報量が10である。
クリエイティヴでは無い。




以上の分析のように、この彫刻は《キッチュ》であって、芸術ではないのです。
しかし今日の多くの人々は、このフィッシェルの彫刻を、まがいものの彫刻としてではなくて、本物の芸術作品として見る人が圧倒的に多いのではないでしょうか。人体彫刻という伝統的なものですらが、今日ではキッチュ化した偽物に変貌しているのです。

《キッチュ》とは何なのか?
この問いもむずかしいものです。特に芸術のわからない人にとっては、《キッチュ》は芸術の代用として重要なものであって、強く引きつけられるのです。

ほんもの(本物)と、まがいもの(偽物)の区別をつけることが困難な時代を私たちは生きているのです。区別をつける能力を回復するためには、良いものを沢山見て、偽物を偽物として見抜く眼力をつけなければなりません。

そこで、思い出すのがマイヨールというフランスの彫刻家の晩年の作品です。

マイヨール「川」

フィッシェルとマイヨールの彫刻を並べて見てみましょう。私たちはマイヨールを彫刻家と思っていますが、実は元々は画家であって、40歳過ぎてから彫刻家になったのがマイヨールなのです。

マイヨールとフィッシェルの彫刻の比較

マイヨールの彫刻と並べると、フィッシェルのマイヨールの彫刻は、《第1次元 社会的理性領域》から《第6次元 自然領域》まである作品で、この領域が文明としての基本で、ここをちゃんと持っている事が、芸術としての骨格なのです。





フィッシェルの絵画も、グリンバーグ的に言えば「ペンキ絵」で、6次元のローアートで、キッチュです。同様の性格がN氏にもあります。
N氏とフィッシェルを比べて一番大きな差は、フィッシェルが液体絵画=近代美術であるのに対して、中村亮一の絵画は、固体絵画=前近代絵画であることです。だから重くて、ダサくて、下手に見えます。固体絵画というのは、液体絵画に比べて固くて、鈍重に見えるのですね。

フィッシェルの絵画は、6次元のペンキ絵で、キッチュであると言いましたが、その魅力の根底には、もう一つの構造があります。つまり単なる6流のキッチュではなくて、今日的な新しさが、あったのです。それが101次元から200次元のバーチャルリアリティの鏡像性なのです。画面の表面を、金属の鏡の様な表面性がおおっていて、絵画が画像である、いや鏡像であるという性格を示しているのです。同様の鏡像性がN氏の絵画の一番手前の表面にあります。


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あのスカイラインは痛車(いたしゃ)と呼ばれているのです。あのような車だけの集まりもあります。これまでの自動車史ではなかったんじゃないかと。乗っている人にインタビューしないと理解できません。

久しぶりのアート論で、大変興味深く読ませていただきました。私も2000年前後のメアリー・ブーンでの個展だったと思いますが(ローマ・シリーズ)、現物を見て、まさに彦坂さんのおっしゃる鏡像のような不思議な感じをおぼえた経験があります。


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プロフィール

New HIKOSAKA 彦坂尚嘉

Author:New HIKOSAKA 彦坂尚嘉
彦坂 尚嘉(ひこさか なおよし、1946年6月26日 - )は、 美術家。立教大学大学院特任教授。日本建築学会会員。日本ラカン協会会員。気体分子ギャラリーを主催。

【著書/出版】『反覆/新興芸術の位相』(74年、田畑書店)、『死に対抗する力』(91年、ギャラリーKURANUKI)、『リノメランコリア』(94年、岡部版画工房)、共著『リベーションの現場』(05年、彰国社)、共著『メディアと精神科医』(05年、批評社)。共著編『皇居美術館空想』(08年9月朝日新聞社)。『彦坂尚嘉のエクリチュール』(08年、三和書籍)、共著『3・11万葉集 復活の塔』(2012年、彩流社)

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