topimage

2017-10

スポンサーサイト - --.--.-- --

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

 - 2012.09.29 Sat

img_1204478_34268602_2.jpeg

 今日は立教大学大学院の後期の授業が始まって、最初の授業は芸術社会学のテキストを使って始めたのですが、社会の定義というか、学問的設定で、学生から質問が出て、議論になりました。

 芸術と社会の関係といった視点で、芸術社会学を措定したときに、社会の外部というものが存在するか否かという議論でした。

 学生は大学院と言うこともあって優秀で、社会学の視点では、社会の外部というのは無いというのです。


        【続きは下記Read Moreをクリックしてください。】  芸術社会学と言う場合に、じつは芸術のすべてでは無いですが、芸術の中心は、実は社会の外部にあるという立場を私はとりました。
 
 この場合、社会というのは、何であるのかという定義の問題が出てくるのですが、人類史700万年の中で考えると、いわゆる文明が成立してくるのは、せいぜい1万年です。残りの699万年の時代というのは、自然採取段階で、20人から120人くらいの《群れ》で生活していたと考えられるわけで、《群れ》と《群れ》のあいだには言語的な共通性がほとんどなかったと考えられます。こうした無文字言語時代の状態を、今日の社会という言葉で延長して捉ええるのか?という問題なのです。
 
 つまり私たちが今日「社会」という言葉で言う社会というのは、農業をするようになって、《群れ》の段階以上の大きな古代帝国を作るようになって、書き文字を成立させた段階を「社会」というのであって、それ以前の自然採取の《群れ》というのは、「原—社会」とは呼べるけれども、社会ではなかった。つまり社会の外部というのは、一つはこの「原—社会」というべき原始共産性であったのであって、現在の現代文明の中で、実は原始的な《群れ》は、今も「社会」の外部性を形成していると言えると私は考えているのです。
 
 エジプト文明のような古代帝国という大きな集団の成立による《社会》の大きな集団の成立の中で、それまでの自然採取の段階の《群れ》の文化を疎外したときに《芸術》が成立してくる。
 
 つまり原始段階の美術は、《原—芸術》ではあるが、《芸術》ではないというのが、私の考えかたなのです。そしてこの《原—芸術》というのは、芸術の一つの外部を形成してくる。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■


 もう一つは、原始的な自然採取段階の《群れ》から離脱していく「離れザル」というような存在がありますが、これは原始的な原—社会の外部です。
 
 日本猿の《群れ》の場合、強力な統率力をもつボスザルとそれを取巻くメス、子供を中心として、他のオスは周辺部に位置し中心部に入ることが許されないという「同心円二重構造」として《群れ》の原-社会構造ができているのです。雄は幼い間はメスと共に群れの中央にいるが、若者になると群れの外側に出て、一部は離れザルとして群れを去るのです。こうした離れザルと同じような行動は人間の《群れ》の中にあったと考えられます。ここに社会の外部の出現を見るのです。
 
 こうした社会の外部の出現と、原-芸術は、深く関わっている。すぐれた芸術の中心部分には、この外部性があるのだというのが、私の主張だったのです。
スポンサーサイト

● COMMENT ●

久しぶりに書き込みます。授業での議論がどういうものだったのか分かりませんが、例えばレヴィ=ストロース由来の構造主義的な文化形成の考え方は、社会学に無批判に敷衍すると新カント主義的というか、社会構造化における理性の役割をあまりに普遍的なものと考え過ぎたものとなりますね。

近代的人間の理性の力を否定した二クラス・ルーマンの社会学では、コミニュケーションの成立する再帰的で閉じられたネットワークシステムを「社会」と呼んで、環境と人間の生身の身体は社会の外部として常に析出されるものと論じています。人間同士の紐帯をこうした意味での社会的コミニュケーション以前の、ホモ・サピエンスの生理的な自動作用の産物としての基準に落とし込めば、それは確かに外部であるというしかないと思います。ルーマンの流れを汲むノルベルト・ボルツは、ポストモダンの時代に「社会」の外部として析出されわれわれの目の前に打ち捨てられた肉体の群れの例として、ヨーロッパにおけるスキンヘッズの集団を挙げていました(もちろん、彼らの人権を否定するためでなく、理性的な包摂主義の社会学を否定するための比喩としてですが)。

Re: タイトルなし

soulstasis 様

コメントありがとうございます。

> 久しぶりに書き込みます。授業での議論がどういうものだったのか分かりませんが、例えばレヴィ=ストロース由来の構造主義的な文化形成の考え方は、社会学に無批判に敷衍すると新カント主義的というか、社会構造化における理性の役割をあまりに普遍的なものと考え過ぎたものとなりますね。

なるほど。
レヴィ=ストロースは偉大な社会人類学者であると思いますが、顔を芸術分析すると、固体の人です。その辺で、社会の様態のとらえ方が氷河のようなものという、固体性があるように推察します。

> 近代的人間の理性の力を否定した二クラス・ルーマンの社会学では、コミニュケーションの成立する再帰的で閉じられたネットワークシステムを「社会」と呼んで、環境と人間の生身の身体は社会の外部として常に析出されるものと論じています。人間同士の紐帯をこうした意味での社会的コミニュケーション以前の、ホモ・サピエンスの生理的な自動作用の産物としての基準に落とし込めば、それは確かに外部であるというしかないと思います。

ニクラス・ルーマンは、私は読んでいませんが、wikiで読んで、顔を見ると、《想像界》しかない人物で、《第6次元 自然領域》なので、社会学としては、駄目なのではないでしょうか?

それに対して構造機能社会学のタルコット・パーソンズが、顔で見ると、《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》《α》《β》《γ》《Δ》とあって、信用ができます。様態も高温プラズマで、今日的だと思います。しかし、ご指摘の社会の外部への視点は、もしかすると無いか、弱いのかもしれません。

しかし、さらに構造機能社会学を展開したロバート・キング・マートンになると、会的機能には既存の社会構造を揺るがす逆機能があることを指摘しているので、外部への視点があるのではないかと思います。ロバート・キング・マートンの顔は、まったく新しいタイプのもので、驚かされました。

>ルーマンの流れを汲むノルベルト・ボルツは、ポストモダンの時代に「社会」の外部として析出されわれわれの目の前に打ち捨てられた肉体の群れの例として、ヨーロッパにおけるスキンヘッズの集団を挙げていました(もちろん、彼らの人権を否定するためでなく、理性的な包摂主義の社会学を否定するための比喩としてですが)

ノルベルト・ボルツは、申し訳ないですが、顔で見ると、《想像界》だけで《第6次元 自然領域》だけですので、透徹性に欠けると思います。

ロバート・キング・マートンという学者の著作は全く読んだことがないので読んでみたいです。

>ニクラス・ルーマンは、私は読んでいませんが、wikiで読んで、顔を見ると、《想像界》しかない人物で、《第6次元 自然領域》なので、社会学としては、駄目なのではないでしょうか?

そうですね。レヴィ・ストロース等と比較すると非常に凡庸な顔をしていると思います(笑)。
もともとルーマンは官僚をやった後に学者になったので、そのような顔をしています。もっというと、社会現象にコミットしようという視点がルーマンの理論からはあからさまに排除されていて、戦後ドイツの左派の社会学に勝つためにすべてが作られているような議論オタク的なものです。タルコット・パーソンズに学んでいながら社会の包摂の外部を際立たような理屈にしたのも、旧枢軸国の思想家という位置づけが生み出した鬼子のようなところがあります。
ボルツは山師的な顔で推察できるかもしれませんが、ボードリヤールに初期ロマン派の精密な分析と投機市場やインターネット時代の教養を身につけさせてバージョンアップさせたような内容の著作です。

実際にはルーマンの理論の大部分はドイツの戦前の理論家をうまくまとめている部分が大きくて、重要な元ネタの一つが一般には哲学的人間学に分類されていたアーノルト・ゲーレンの思想です。戦中ナチ党員だったこともあり戦後の社会的な影響力はありませんでしたが、ルーマンにしろ、ハーバーマスにしろ、パーソンズとゲーレンという共通の元ネタから色々引っ張り出してきてる感じがあります。ゲーレンの顔はなかなか凄いと思うのですがどうでしょうか?http://www.heike-delitz.de/phila/Gehlen.html

Re: タイトルなし

soulstasis 様

お返事遅れてすみません。
大変に良いコメントで、勉強させてもらっています。
タルコット・パーソンズは一冊買って来ましたが、凄いですね。透徹してます。

> ロバート・キング・マートンという学者の著作は全く読んだことがないので読んでみたいです。

WIKIで読むと、私の考え方と重なります。

> 実際にはルーマンの理論の大部分はドイツの戦前の理論家をうまくまとめている部分が大きくて、重要な元ネタの一つが一般には哲学的人間学に分類されていたアーノルト・ゲーレンの思想です。戦中ナチ党員だったこともあり戦後の社会的な影響力はありませんでしたが、ルーマンにしろ、ハーバーマスにしろ、パーソンズとゲーレンという共通の元ネタから色々引っ張り出してきてる感じがあります。ゲーレンの顔はなかなか凄いと思うのですがどうでしょうか?http://www.heike-delitz.de/phila/Gehlen.html

ゲーレンには、《想像界》《象徴界》《現実界》はありますが、《サントーム》はありません。その意味では正確には、近代人ではありません。

《想像界》では《第8次元 自明領域》の人物。
《象徴界》では、《超次元》〜《第163万8400次元》の人物。《象徴界》の人物と言えます。そういうことは、つまり近代人というよりは、中世的な人物です。
《現実界》では、《第8次元 自明領域》

様態的には、固体の人物。つまり前近代の人間です。

というわけで、古いタイプの人で、中世的なものに回帰している反動の人です。私はあまり読みたくはないです。


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

http://kb6400.blog38.fc2.com/tb.php/680-30f90338
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

イタリアのアルテ・ポーヴェラの作家:ボエッティ «  | BLOG TOP |  » 落札ありがとうございます

ブロマガ

月刊ブロマガ価格:¥ 6400

紹介文:

ブロマガ記事一覧

ブロマガを購入する

購入したコンテンツは、期限なしに閲覧いただけます。

プロフィール

New HIKOSAKA 彦坂尚嘉

Author:New HIKOSAKA 彦坂尚嘉
彦坂 尚嘉(ひこさか なおよし、1946年6月26日 - )は、 美術家。立教大学大学院特任教授。日本建築学会会員。日本ラカン協会会員。気体分子ギャラリーを主催。

【著書/出版】『反覆/新興芸術の位相』(74年、田畑書店)、『死に対抗する力』(91年、ギャラリーKURANUKI)、『リノメランコリア』(94年、岡部版画工房)、共著『リベーションの現場』(05年、彰国社)、共著『メディアと精神科医』(05年、批評社)。共著編『皇居美術館空想』(08年9月朝日新聞社)。『彦坂尚嘉のエクリチュール』(08年、三和書籍)、共著『3・11万葉集 復活の塔』(2012年、彩流社)

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

未分類 (85)
6次元アートの限界 (0)
ポストモダンのアメリカ美術 (11)
気体分子ギャラリー (34)
アートスタディーズ163万8400次元 (97)
映画 (31)
日記 (54)
音楽 (84)
海外の《超次元》アーティスト (4)
訃報 (4)
《第6400次元》真性の芸術 (5)
喜劇 (3)
彦坂尚嘉 の作品 (15)
状況と変動 (134)
告知 (81)
作品の発表 (6)
美術系ラジオ (33)
顔 (6)
人間の研究 (35)
芸術分析 (22)
皇居美術館 (0)
自殺 (2)
アニメーション (2)
味覚 (0)
歴史 (3)
復刻:『美術評論』 (1)
独裁者 (1)
第51200次元 (1)
建築系美術ラジオ/建築系美術ラジオ (3)
建築 (6)
美術テレビジョン (4)
オークション (53)
ギャラリーショップ (0)
ウェブショップ (1)
絵画論 (3)
固体の美術 (1)
特上のラップ (3)
異端美術研究会 (1)
アート論 (3)
反復-2007 (0)

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。