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2017-10

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マリネッティにある《ほんとうの詩》 - 2012.11.10 Sat



マリネッティにある《ほんとうの詩》

《アヴァンギャルドの停滞》というのは1975年以降の状況です。少なくとも1991年以降は《前衛の終焉》ということが大きな状況としてあったのです。

(こうしてライト・アートがはびこりはじめます。ロックは商業主義になって、ボストンが喝采を受け、U2が化粧品のような匂いになります。そして文学は消えて、ライト・ノベルとしての吉本ばなな、村上春樹が、世界的に注目を集めたのです。さらにライト・アートとしての奈良美智や、会田誠、草間弥生、村上隆が台頭して世界を制圧したのです。草間は、くだらないライト・アートでした。先日の国立国際での晩年の作品は原始美術でひどいものだとおもいますが、多くの人があれに現代美術のほんとうの姿をみるのです。時代は変わっていくのです。同時にそれは日本の美術館・美術界のライト化であったのです。その軽芸術時代の象徴的存在が金沢21世紀美術館でした。吐き気のするような作品に、人気が集中し、多くの観客を集めて、大成功したのです。しかし、それ以上にライト化したのは、日本の政治の軽薄化でした。ライトになることで、全体である日本が荒廃し、衰弱し、赤字になり、財政が破綻し、産業も負けるようになりました。新興衰退国へと転落していったのです。こうした亡国の政治家を選んでいったのは日本の大衆でした。大衆は《軽》が大好きで、亡国の道を選択したのです。軽カルチャーが栄えて、日本が沈没していくのです。)
 

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彦坂塾『ひこさかL&Hアート塾』の試運転第一回の開催 - 2012.11.07 Wed

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 タマダプロジェクトでの彦坂塾『ひこさかL&Hアート塾』の試運転第一回を開催しました。思ったよりも多くの人が参加してくださって感謝です。タマダプロジェクトを含んでの全構想をオープンする段階ではないので、私の部分だけでもということで、授業というよりは説明が主で、みなさんの要望をお聞きしました。各自の欲望の多様性と複雑さ、曖昧さの中で、各自の学びの焦点を結んでいくような立体的なプログラムが組みたいですが、考えることと、実行できることは必ずしも一致しないので、リアルにやれればと思います。
 最後にフランスの哲学者アランの『諸芸術の体系』の冒頭の「想像力」を読みました。アランは透徹していてすごいです。
 来週から、4コマの試運転授業を開始します。詳しいプログラムは、明日にはお知らせしなければと思ってます。興味を持ってくださる方がご参加下されば嬉しく思います。

□言語判定法を教える□  - 2012.10.31 Wed

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□言語判定法を教える□

私が開こうとしている私塾に対して、一番要望の多いのが、《言語判定法》を教えて欲しいというものです。

この場合、ネックにあるのが、今の多くの人は、自己愛性人格障害者で、他人というものを見ないで、自分だけを見ていることがあります。それは同時に、自分の外部を見ていないことなので、多くのことを知らないのです。無知無能な人々の《群れ》が出現しています。

つまり、言語というものは、外部とつながっているシステムで、「木」という言葉は、山に生えている「木」とか、川にかかっている「木」の橋とか、そういう外部との関わり合いの経験の凝縮としてあるのです。

外部の認識の経験量が必要ですから、まず、自己愛性人格障害を克服する意思がないと、《言語判定法》を使えるようにはならないのです。

昨日(2012.10.29)も事件があって、武蔵野美術大学で開催されている芸術祭に、ノイズ音楽家の廃いゆー子さんがゲリラ・ライブをして、警備員に警察に突き出されてしまいました。これを見ていたのが坂田真奈美さんと生須芳英さんなのです。彼らから電話があったので、とにかく警察に行って、状況を心配して関わり続けなさいと言ったのです。それが《象徴界》という言葉と深く関わっている事象なのです。《象徴界》というのは、人間の関係に対する関係の問題なので、こういう警察沙汰をきちんと誠実に関われないと、現実に《象徴界》という言葉を把握しているということになりません。なによりも警察という法に関わる機関という存在そのものが《象徴界》的なるものなので、警察の中を見て、なじまなければなりません。警察小説も読まなければなりません。

そして仲間を守る、裏切らない、人を思いやる、他人の頑張りを評価する、他人の作品を鑑賞する、という基本ができないと《象徴界》という言葉を理解したことになりません。

今のアーティストには、他人の作品を鑑賞しない人が多いのです。この様な人は、言語判定法を学ぶのは無理です。

そういう意味で、今日の日本人社会にはローマ帝国の末期のような現象が進行してきていて、驚くべき《能力の喪失》に至っているように見えます。言語を形成する現実との関係を喪失することによって、急速に学習能力が無効化してきているのです。それは内田樹さんの著書『下流志向─学ばない子どもたち、働かない若者たち』が指摘していた現象です。

本当に学ばなくなっていて、働くこともしなくなっている若い人が増えてきているように思えます。このレベルで言語判定法を教えるというのは、根気のいるゆるやかな作業になりますから、ある程度の年月がいるのです。


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ライトカルチャーの源流・・・オーフェンバック - 2012.10.28 Sun



ライトカルチャーの源流・・・オーフェンバック

 東浩紀の本を読んだ影響で、ライト・ノベル(軽文学)を読んでみましたが、途中で止めてしまいました。読み終える根気がありませんでした。今日の日本にはライト・アート(軽芸術)とか、ライト映画などはあふれているので、このライト・カルチャー(軽文化)についての考察は必要な事なのです。

 その源流の一つは、軽音楽(ライト・ミュージック)にあります。
 軽音楽(ライト・ミュージック)の最初の作曲家の一人が、オーフェンバックです。その代表曲の一つがオペレッタ「天国と地獄」(1858年)で、日本でも第一次世界大戦が始まった1914年に帝劇で初演されている有名な曲です。しかし今日の多くの人は、これを軽音楽(ライト・ミュージック)とは認識できないかもしれません。普通のクラシック音楽だと思う人も多くいるかもしれません。

 フランクフルト学派のアドルノの『音楽社会学序説』をテキストに使って、立教大学大学院で、この軽音楽(ライト・ミュージック)について講義しているのです。その関係で、ジャック・オッフェンバックについても、改めて注目しているのです。


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■ ひこさか L&H アート 塾 ■ - 2012.10.26 Fri

玉田/彦坂ブログ


■ ひこさか L&H アート 塾 ■

ようやく東京月島のタマダプロジェクトでの、彦坂尚嘉の私塾の開講が、とりあえず土曜日だけですが、玉田俊雄
さんの決断がなされました。

なぜに、時間がかかったこというと、玉田さんが考える構想が大きくて3つあって、

・アートビジネスWWスクール(仮称)
・国際リーダー教養塾(仮称)
・キッズスーパースクール

というものだからです。
私も、そういう相談には乗ってきていますが、一般人、企業人などもターゲットに考えておられて、私の手にあまるところがあります。


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岡本太郎の錯誤を乗り越えるために・・・ - 2012.10.26 Fri

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岡本太郎の錯誤を乗り越えるために・・・

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芸術は2つある
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芸術は2つに分裂している。

○Hアート(ヘビー・アート)=重アート
●Lアート(ライト・アート)=軽アート

それは次のような分裂としても出現してきている。

□高級な芸術(ハイアート)
■低級な芸術(ローアート)

さらに次の様な分裂もある。

△人称芸術=有名作家の芸術
▲非人称芸術=無名作家の表現、民俗芸術、民衆表現、柳宗悦の民芸など。

つまり、このような分裂は、複雑な分裂状態を示していて、しかも久しい昔から分離し、かつ、からみあって歴史を形成してきている。

この分裂の始原は、エジプト文明に代表されるような文明が成立した時にさかのぼる。

文明的な芸術は、《想像界》/《象徴界》の2重構造の芸術として成立した。

それに対して、文明以前の原始生活にあった《想像界》だけの単層文化が、文明の成立を横目で見ながら、再度形成された。ここに2つの芸術の分裂の起源がある。

つまり高級芸術とは2重構造以上の複雑な構造を持つ芸術である。

それに対して低級芸術とは、原始に基盤を置く《想像界》だけの精神に還元した単層の芸術なのです。

つまり、重構造の芸術と、単層構造に還元された芸術の、2つがある。


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三菱一号館美術館:シャルダン展 - 2012.10.22 Mon

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シャルダン展を見てきました。もともとアカエイの作品や、ストーブの作品が好きでした。うさぎの死んだのを描いくことが、大きな出発点になったと言うことですが、今回の展示は、初期の2枚のうさぎの絵が秀逸で、すばらしいものでした。


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ケネス・ノーランドの1961年の作品 - 2012.10.18 Thu

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ケネス・ノーランドの1961年の作品です。

ノーランドの作品は、デザインに過ぎないので、もともとアメリカの1960年代芸術の中でも、評価の高くない作家であると私は思ってきていました。

今回、Facebookで見て驚いたのは、この作品が《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》という4つの基礎領域が無い作品であることです。つまり説明抜きで言うと、1階の部分がなくて、2階の《α》《β》《γ》《Δ》があります。



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美術に対する態度の類型 - 2012.10.10 Wed

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美術や音楽の享受者・鑑賞者というのを、平等な普遍性をもって今まで考えてきましたが、それはリアルでは無くて、7種類の人々がいるという批判があります。
 
 フランクフルト学派のテオドール・アドルノを、立教大学大学院の授業で読んでいるのです(JJ144/言語多文化学演習 6 <比較文芸思想論・サブカルチャー>)。
 
 アドルノは凄くて深い社会学者ですので、授業はむずかしくなります。
 
 彼の論理を下敷きにして、7種類の人々を、分かり安く、やや低俗化して簡単にして整理しますと、次のようになります。


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芸術におけるプラズマ化 - 2012.04.04 Wed

プラズマというのは、固体、液体、気体につづく物質の第4の状態です。

気体を構成する電子が、陽子イオンと、電子に別れて、自由に運動している状態です。つまり電子が解体されているのですが、それは今日では家族や、友人などの人間関係の分離から、画廊の質の変化、会社の雇用関係の変化などを生み出しています。

美術で言うと、水の比喩で言えば、液体の水が沸騰して気体化した美術作品がポロックであったのですが、この気体化した美術がさらにプラズマ化して来ているのです。

そのプラズマ化が、どの作家から起きたのかを正確にはまだ言えませんが、少なくともジェフ・クーンズにおいてはプラズマ化しているのです。
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画像作品とペインティング化の問題 - 2012.04.03 Tue

今日においては、たとえば絵画作品は、国際展にはほとんど出てこない状態になっています。一方、アートフェアでは依然として絵画が主流を占めています。

こういう国際的な状況を、どう考えれば良いか?

何が芸術にこのような変動を起こしているのか?
この様な変動を起こしているそもそもの原因はなんなのか?
そしてこの変動によって、表現論的には、如何なる構造が生じているのか?
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このような、基本的な状況分析や、芸術分析が、日本の美術界では、まったくなしえない状態になっています。

まじめな議論をしたくても、それを、なし得る知的な状況にはないのです。

絵画の死という状況を感情的に反発して、絵画が死んでいないという主張をする評論家もいますが、ならば、国際展の状況をどのように説明するのか、わかりません。

根本的な文明の転換が、今日なされていて、それが芸術的な変貌をよんでいるのです。

こういう知的に衰弱した日本の状況の中で、真摯に考えようとすること自体が不可能に挑む無謀な作業となります。

彦坂尚嘉の作業は、こうしたものであって、無駄なことを日本の中でやっているのにすぎません。

しかし、すべての論理的、哲学的な思考は、日本の中では無駄なことにすぎません。

ましてや、芸術について考えることは、日本においては無駄なことです。

無駄なことをする意思がなければ、できないこともあるのです。

と言うわけで、無駄を覚悟で、不毛な思考を、彦坂尚嘉はあいかわらず展開しています。

今回は、「画像作品とペインティング化の問題」を論じます。
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《下》と《下の下》について - 2012.04.02 Mon

日本の現実は、街を歩いて見える世界の大半は《下》です。《下》というのは、「上中下」という三つの区分を言葉にして、その言葉、つまり「下」なら「下」という言葉を投げかけると、見えてくる世界です。この問題を考えます。
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2012東京五美大連合展を見る(2) - 2012.03.08 Thu




新国立美術館で開催されている東京五美大展を、彦坂尚嘉が見に行きました。一緒に行ったのは笹山直規、栃原比比奈です。6流の作品が膨大にある中から、異端の作品の発掘を­しました。異端とは言っても、《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》の概念梯子を持つ作品を発掘しての報告です。
 会場には、一流、つまり《第1次元 社会的理性領域》の作品が一点も在りませんでした。
 一流が無いのは、問題であって、今日の美術大学の教育が文明としての正統な美術教育を欠いていることの表れであると言えます。《一流》性をもった作品は重要なものであって­、今日の多層性のある表現においても《一流》性は不可欠なのですが、これが無いという五美大展の状況は、美術教育の基礎を欠いていると言えます。高い学費を取られて、学生­は基礎の基礎を学ぶこと無しに卒業させられているのです。

今日はアートスタディーズです。 - 2012.03.05 Mon

アートスタディーズも9年間続けていて、
いよいよ最終段階になって来ています。

本日は1965年からの10年間です。
1970年に万博があり、そしてニクソンショック、さらには石油ショックが起きるのですが、美術で言えば、日本に反芸術が台頭し、さらに非芸術が花開くという、モダニズムアートの最終段階に至る時代です。

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1965年~(1974年)の美術 反芸術の自立化の幻想

 65年のアメリカの北ベトナム爆撃(北爆)の開始を背景に、ベトナム戦争反対の反戦運動を主軸に反体制運動が広がり、物質文明と言われた近代の産業社会の文明的な秩序が壊れていくプロセスとなる。。
 
 この中でアートテロリズムが花開いたが、その代表は赤瀬川原平であった。1月27日、赤瀬川原平の千円札模型などが検察証拠品として押収されて、千円札裁判がこの年から67年にかけて行われる。
 
 加藤好弘と岩田信市のゼロ次元もアートテロリズムを先鋭に示して、「なにを出しても、なにをしても可」を合い言葉に活発なパフォーマンスを展開する。その一つは東京の路面電車・都電を借り切って全裸の男女を乗せて走らせる「電車内寝体儀式」であった。

 こうしたものは《原-芸術》《芸術》性はないのだが、《反-芸術》という概念に依拠した表現であった。
 
 高松次郎の「影」のアートパネルとも言うべき作品が、やはり65年に登場する。アートパネルといったのは、高松の作品には《原-絵画》《絵画》性はなくて、「不在性」のイラストレーションとも言うべきものであったからである。

 そしてゼロ次元同様に《原-芸術》《芸術》性は無いのだが、《反-芸術》があることでこの時代特有の文明的な崩壊状況を表象した。
 
 産業化社会の物質文明の崩壊は、シニフィアンとシニフィエの分離というシーニュの原理的な解体まで及んで、美術作品は一方で物質的な存在に還元される一方で、非物質的なバーチャルな非在性に還元された。
 
 物質の存在そのものへの還元は、戦前の斎藤義重にみられたものだが、多摩美術大学での斎藤の教え子であった関根伸夫らによって過激化されて、もの派というグループと作品様式を成立させた。

 これらは《非-芸術》であった。《非-芸術》の台頭が、反芸術運動の息の根を止める。
 
 もう一方の芸術の非物質化は、64年「オブジェを消せ」という啓示を受けて概念芸術家としての活動を始めた松沢宥に代表される。

 これもまた《非-芸術》であって、《原-芸術》《芸術》性は無かった。

 アメリカにおける概念芸術家であるコスースが、《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》の全領域性を持っていたのに比して、日本のそれは痩せ細っていた。
                             (彦坂尚嘉)

作品を売ることは汚いのか(2~3/4) - 2012.03.01 Thu

『作品を売ることは汚いのか』のシリーズの2と3です。まあ、基本的な話をしているので、最後の4では、少し具体的な手法を話しています。さらに5を作りたいのですが、作れるかどうかを、まだ分かりません。

作品を売ることを当たり前とする人も多いと思いますが、現在の不景気な状況になると、かつてのような甘い状況ではないように思います。

美術マーケットは冷え切っています。こういうときこそ、基礎を再度考えて、新しい時代に乗り出して行かなければなりません。5が作れるとすれば、そういう内容をお話しできればと思います。
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作品を売ることは汚いのか - 2012.02.29 Wed




某広告代理店のマーケッティングの専門家に藤沢のアトリエに来て頂いて、基本的な思考のレクチュアーを受けました。お仕事柄その内容を直接には写真も音声もとらないでお聞­きしたので、間接的に記憶だけでこの美術テレビジョンを作りました。なお、もう少し踏み込んで別撮影した2~4は,
eラーニング用で限定公開です。

芸術における様態の問題/『世界侵略:ロサンゼルス決戦』 - 2012.02.21 Tue

『世界侵略:ロサンゼルス決戦』という映画が、多くの人が面白いと言う反応をしているにもかかわらず、私にはつまらなくて、古いと感じたと書きました。多くの人の反応というものを、私はそれほど重視しません。それよりもこの映画の古さが問題なのです。

その理由は、この映画の様態が、《液体》状態だからです。
つまり古い近代の様態で作られているのです。にもかかわらず《超次元》~《第51200次元》という多層性もあるのです。

つまり古い近代映画は、《超次元》~《第50次元》までしかないし、多層であっても《超次元》~《第100次元》までしかないのです。ですからこの『世界侵略:ロサンゼルス決戦』というのは、古い近代映画ではなくて、明らかに今日のハリウッド映画の多層性をもっている力作なのです。が、にもかかわらず、様態が《液体》状態で、わざっと古い戦争映画を意識して作られているのです。

《液体》というと、実は村上隆の作品も液体であって、この『世界侵略:ロサンゼルス決戦』と同じような古さをもっているのです。古さをもっているが故に、多くの人に面白いと評価されている。

しかし村上隆が意識して模倣したジェフ・クーンズの作品の様態は、プラズマなのです。

多くの人に面白いと評価されるのなら、それで良いとも言えますが、にもかかわらず、古い表現に留まっているという保守性は、私にはつまらなく見えます。多くの人が嫌いでも、新しいプラズマの状態になっているジェフ・クーンズの作品の方が、村上隆よりも面白いのです。私自身は、ですからプラズマの作品を作ることが、現在美術であると思います。

この様態を問題にする視点は、実は社会学的にも、芸術論的にも議論されないできています。しかし様態論から見ると、分からなかった事が分かるのです。
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非人称芸術と、芸術 - 2012.02.05 Sun

糸崎公朗さんからのコメントに対して、お答えします。

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コメントが遅くなって申し訳ありません。

ぼくの最近の反省点は、彦坂さんとのおつきあいも長いのに、ブログを最初からキチンと読もうと思ってなかったことです。
過去のブログには、既にさまざまな自分にとっての「答え」が提示してあり、あらためて驚いてしまいます。
その中で、乗り越えなければならない大きな問題に<去勢>があるのですが、これがなかなか難しいことが、今回の記事でも自覚されました。

先日は、こちらの記事に紹介されてました、沼正三『家畜人ヤプー』を読みました。
http://kb6400.blog38.fc2.com/blog-entry-314.html
『家畜人ヤプー』は石森正太郎が劇画化したこともあって、「未来の人類文明は白人が支配階級、黒人は奴隷、日本人は家畜=ヤプー、と言う階級社会になっている。未来の日本人は人間以下の家畜で、さらに家畜以下の道具としても使役されるため、さまざまにグロテスクな姿に改造されている・・・」という概要だけは知ってました。

しかし実際に小説を読んで驚いたのは、「犬」や「乗り物」や「便所」などの各用途に特化され改造されたヤプーには、それぞれ明白な意識や知性が備わっている、と設定されてたことです。
ぼくは「人間としての扱いを受けないヤプーは、人間としての意識も剥奪されているのだろう」と勝手にイメージしてたのですが、実際は違っていたのです。

例えば「便所」として使われるヤプーは、自分を使用する白人を<神>と崇める神学大系の中にあり、特に白人貴族に使われるエリートの「便所」ヤプーは、自分が「極楽浄土」にいることを自覚しています。
さらにそのようなエリートの「便所」ヤプーは、「便所」となるための大学院で博士号を取得し、人体(神としての白人)の健康と排泄物についての膨大な知識を有し、高いプライドを持っています。
だから「便所」という、人間としてこれ以下はない境遇にあっても、彼らの中では惨めな思いは微塵もなく、充実と満足と幸福とに満たされているのです。

それは「犬」や「乗り物」や「家具」などあらゆるヤプーも同じであって、だから彼らの境遇に対し「開放」や「革命」はあり得ません。
ヤプーに対し、本来の人間に、本来の日本人に、戻るように仕向けたとしても、意味が伝わらないし迷惑がられるだけなのです。

**

これを自分に置き換えて考えると、「ヤプー」として育ってしまった自分が、彦坂さんの「開放」の呼びかけに反応できないのも、むべなるかなと思います。

>ですからIT君が非人称芸術を主張してきたことを含めて、それは筋の通ったものであって、それで良いと思うのです。

つまり自分は「非人称芸術」に特化して飼育され、改造されたヤプーであって、そこから「開放」されるということは、自分の全存在を否定することになります。
それは「便所」ヤプーも同じであって、「便所」がいかに汚く惨めな境遇であっても、彼の主観では「大切な自分」であり、それを捨てたら「自分が無くなってしまう」わけです。

しかし客観的に見れば、「便所」というのは最大限に汚いものであることは明らかで、人間が「便所」そのものになるなどもってのほかです。
同じように客観的に見れば、すなわち彦坂さんが過去のブログで書かれてた「無知のヴェール」を通し、「非人称芸術に固執する」という自分の立場を離れた視点で判断すると、ぼく自身の思いつきでしかない「芸術とは何か?」と、彦坂さんが学問的に構築された「芸術とは何か?」では、比較にならないくらいの歴然とした差があって、何に従い、何を捨てるべきかはもはや明確になります。

また、たとえ「便所」ヤプーがその境遇から精神的に、肉体的に開放さたとしても、「およそ人間らしからぬ生き方」をしてきた彼とすれば、「正常な人間らしさ」をほとんどゼロから構築する必要があり、これも大変なことです。
同じように、ぼくがこれまで「芸術」と信じてきたものは、「およそ芸術らしからぬもの」であって、だからぼくはこれまでも「芸術家ではなかった」のであり、「芸術家としての自分」をゼロから構築する必要があるわけです。

というふうに<去勢>の問題を捉えてみたのですが、いかがでしょうか?
幸田文『あとみよそわか』は昨日図書館で借りて読みました。


絵画コンクールに見る《孤児》空間の受賞の1例 - 2012.01.03 Tue

美術作品においての心的な空間の大きさは、
作品そのものの空間と密接に結びついているので、
重要なのです。

つまり心的な空間が小さな人の作品は、小さいのです。
ですから伝統的には、空間の大きな作家の作品を良いものとされて来ましたが、
《孤児》とこのブログで呼んでいるような、小さな心的領域が社会的な比重を大きくして、
美術制度のなかでも、美術展の審査員や、学芸員、館長クラスでも、《孤児》の人が増えてきています。
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公共性の喪失について - 2011.12.26 Mon

このところ、死の問題や、公共性の問題で、芸術に関する思考は飛躍的に進んだのですが、しかしそれを文章にしようとすると、なかなか大変すぎてできなくなっています。

大きく言うと、ある時期から、現在の近代文明が変貌してきて、近代社会を形成してきている《公共性》というものが、衰弱してきたのです。それが「芸術」にも大きな影響を与え、「批評」も不要な状態になって来ているのです。

それは同時に《死》の問題をはらんでいて、もともと文明はエジプトのピラミッドの中の絵画は、お墓のための絵画であるように、《死》と密接にからんで成立していたものでした。しかし文明の《公共性》が失われてくると、芸術は私的なものになってきて、このお墓や《死》の問題を見なくなってくるようになります。

もう少し丁寧に言うと、公共性という構造が転換したようなのです。

リチャード・セネットが『公共性の喪失』という本で指摘しているのは、公共性の喪失が実はもっと前からはじまっていると言うことです。19世紀に万人にひらかれた公共性をもとめて近代市民社会が成立し、それまで生活のなかに歴然とあった公的領域が、個人や家族関係を軸とする私的領域にとってかわられたというのです。

そういう状況が、芸術にわたるあらゆる問題を、個人の心理の問題として測るようなものへと変貌させて、観客と芸術かを分離させて、芸術至上主義が登場してくると言うのです。

それでも近代というのは、国民文化であって、国民絵画を成立させるものとして画家は絵を描くという面を持っていたのです。

話を飛ばして現在について言っても、たとえば村上隆さんの絵画や彫刻には、彦坂尚嘉の言語判定法でみると《公共性》があります。ところが奈良美智さんには《公共性》は無くなっているのです。

小山登美夫ギャラリーの作家を言語判定法でチェックしてみると、思ったよりも多くの作家が《公共性》を持っていて、次の作家が《公共性》を喪失している表現です。
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ラカンと美術読書会/芸術の演習(3) - 2011.12.09 Fri

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ラカンと美術読書会/芸術の演習(1) - 2011.12.03 Sat


太田丈夫さんが言っている集合論の「Aバー」というのは、
A」、あるいは「A」(本当は線がAの上に書くのですが)と書きますが、
全体集合Uのうち,集合Aを取り除いた残りの部分をAの補集合といいで表わします。

こういう書き方をすると、ラカンが使う数学用語や、難解な図解/図式を連想しますが、この動画は、ラカンの読書会のものですので、こういう言い方は、ラカン的なものです。

しかし、私は、ラカンのこうした数学や図式に関しては懐疑的ではありますので、この「Aバー」と言う意味に正確に重なるものとして、芸術の非実態性という性格を言うつもりもありません。しかしにもかかわらず、芸術の性格の一つを理解するのに「Aバー」の比喩はある程度有効だと思います。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



これから名古屋に向かって走り出します。
名古屋でポロック展を見て、山田幸司さんの遺作出版のパーティに出て、それから京都に行きます。
今、アップした続きは、京都からアップします。

糸崎公朗への再批評 - 2011.11.18 Fri

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彦坂尚嘉責任による

[糸崎公朗の新傾向写真」]の芸術分析

アヴァンギャルド写真ではない。
伝統的風景写真である。
現代写真である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
《想像界》の眼で《第6次元 自明性領域》のデザインエンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元 自明性領域》のデザインエンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元 自明性領域》のデザインエンターテイメント
《サントーム》の眼で《第8次元 信仰領域》のデザインエンターテイメント


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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
糸崎公朗さんが、さいきん頑張って、Photshopを使って写真のコントラストを上げて、変えられたのですが、イメージ判定法で見れば、明らかに変わったのですが、しかし、彦坂尚嘉の言語判定法での芸術分析では、《第6次元 自明性領域》のデザインエンターテイメント写真でした。

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《想像界》だけの単層写真。《現実界》《象徴界》《サントーム》の3界は無い。

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糸崎公朗さんの写真は、《想像界》だけの単層写真なのです。しかしご本人は、《象徴界》のある写真と思っておられるようです。
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液体だけの単層写真である。絶対零度、固体、気体、プラズマの4様態が無い。

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《シリアス・アート》である。《気晴らしアート》では無い。
《ローアート》写真である。《ハイアート》写真では無い。
シニフィアンとシニフィエの同時表示。つまりシーニュである表現。
理性脳だけの写真。原始脳性が無い。

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あくまでも《ローアート》の写真であるところに、糸崎公朗さんらしさがあります。

ito849.jpg

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《原始写真》ペンキ絵的写真【B級写真】。
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《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》《形骸》《炎上》《崩壊》の全概念梯子が無い。

《原デザイン》《デザイン》《反デザイン》《非デザイン》《無デザイン》《世間体のアート》《形骸》《炎上》《崩壊》・・・の全概念梯子がある。

《原大衆芸術》《原イラストレーション》《原シンボル》の概念梯子が有る。

《原-装飾》が有る。
《原-工芸》性が有る。

キッチュであって、芸術では無い。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

美術の下部構造というのは、《イラスト》《装飾》《工芸》の欲望です。
この下部構造の欲望のままに制作されている作品は、膨大にあります。
それらはすべて《想像界》の美術です。
同時に原始的な領域なのです。
基本的に呪術的な領域の表現です。
私はそれをいけないといっているのではありません。

糸崎公朗さんの写真には、この原始的な写真の上に、さらに《デザイン》性があるので、もうひとつ高度な表現になっているようにおもいます。

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作品空間の意識の大きさが《近代国家》である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

鑑賞構造が無い。

情報量が50である。
クリエイティヴである。

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言語判定法では、クリエイティヴであると、出ました。たしかに、ある輝きがあります。

Photshopを使って、画像操作としては、格を上げたり、《象徴界》をだしたり、いろいろなことはできます。

この技術を詳細に教えることは、できますが、しかし基本を、ほんとに理解しないで、浅く技術をパクッテも、すぐに《第6次元 自明性領域》の《想像界》だけのものに戻ってしまいます。

作品というものは、人格構造なので、浅い技術の習得では意味が無いのです。

ラカン派の場合には、教育分析に10年かかるとも言われていますが、彦坂尚嘉の芸術分析も、効果を出すのには9年かかるとお考えください。

それほどに人格と結びついた芸術との格闘はたいへんなことなのです。それが嫌な人は、好きなように自然的な態度での《第6次元 自明性領域》の想像界の美術をつくっていけば良いのです。それで十分に日本の現代アート界には通用するのですから。日本の現代アート界で勝ち組になれる人はそれで良いのだと思います。

デザインエンターテイメントについて/Aさんの個人的リクエストによる芸術分析(4) - 2011.11.16 Wed

Aさんの芸術分析とコメントを読んで、Bさんもコメントを書いてくれて、2人のディスカッションになりました。

二人が強く反応してくれたのは、《デザインエンターテイメント》性と、《真性の芸術》性の問題でした。

ここには社会が《私》性を抑圧してくる《公》性であることと、同時に各個人は否応も無く私的に生きているという矛盾があって、この事が、AさんとBさんの経験にも当てはまったからです。

AさんとBさんのコメントの内容は、当然のように個人性が強いので、一般公開はできません。

アーティスト自体は、この《公》と《私》矛盾で成立する職業ですので、この解決策が有るわけでは無いのです。

公私の矛盾は、解決不能なのです。多くの人は《私》を殺して生きています。だからこそ、この《私性》性をもつ《真性の芸術》を見て、嫌悪したり、感動したりするのです。ですからアーティストは、ただこれを自覚してコントロールする技術を身につけていくしかありません。
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《第51200次元》について/糸崎公朗氏の作品を改竄して(校正1) - 2011.11.04 Fri

糸崎公朗のオリジナル写真


建築の人たちとつきあって、その展示を何度も見ていると、
彼らは、基本的に本のレベルで考えているように私には見えます。

本来は本の形で制作したものを、それを壁に並べている。
見る眼の距離が近いのです。
建築模型も同様でミニアチュールのレベルでの制作なので、
眼と対象の距離が近い。

つまりタブローの絵画や、掛け軸の絵を見るときに必要とされている
鑑賞のための距離というものを認識していないのです。

距離の拡大

タブローや掛け軸の様な中ぐらいの美術を見るときには、
その鑑賞物から、ある程度の距離をとって、鑑賞するという精神構造をもって、
鑑賞物を見ながら、同時にそれと《対話》をしなければなりません。
そういう鑑賞芸術の基本を、建築系の人の多くが、理解していないように私には見えます。

さて話を拡大すると、鑑賞と言う行為を成立させる芸術作品には、
鑑賞構造が作られている必要があります。

この鑑賞構造というのは、《距離》をもって見るという行為によって作られます。
理想的には、出来るだけ《距離》を大きくとった方が良いので、
美術家というのは、社会から外に出て、社会からの《距離》を取ります。
それは自分の中に字閉するためではなくて、社会を見るためです。

彦坂尚嘉《超次元》~《第51200次元》


距離をとって、社会を見る行為が芸術を成立させるのです。
ですから社会が変わって、汽車が走るようになると、美術も変わります。

社会を見るために外部に出ると言う《距離》の拡大をするときに、そこには限界があります。
人間の心的内部の限界が《超次元》~《第6400次元》であると、彦坂尚嘉の言語測定法での認識は示しています。

最近見つけた映画で言うと、映画『ひぐらしのなく頃に』が、《第3201次元》から《第6400次元》ありました。
ここまでが人間の妄想の限界です。


《想像界》と《現実界》で《第3201次元》~《第6400次元》、《象徴界》で《第8次元 自明領域》の映画

この外部というと、3.11地震の被害を視察する建築系ラジオのツアーに参加して、膨大な瓦礫の山を毎日毎日見ている内に、地球の内部のマグマの動きやプレートの動きを感じられるようになったのですが、地球の内部まで意識が拡大して《距離》を取ると、心的内部の鏡像が、《第6400次元》が合わせ鏡で倍になって、12800まで認識出来るようになりました。

11111111.jpg


それならば、その先もあると言うことで、《距離》を拡大して、宇宙規模の瞑想空間とも言うべき、《第12800次元》の倍の、25600を、リアルに把握できるようになったのです、これは禅が、すでに座禅の修行の中で語っていた視点です。

2007102282320408.jpg


とすると、さらに宇宙の外部が有るわけで、そこまで拡張すると、《第25600次元》を鏡に映して倍にした、《第51200次元》というのが、その宇宙の外部の意識と言うことになります。

《第51200次元》性を持った表現を最初に見つけたのは、ショスタコヴィッチの交響曲第10番でした。



さて、そういう中で、自分でも《第51200次元》を作ってみることに、挑戦しました。

糸崎公朗さんの《第6次元 自明性領域》の写真を、《超次元》~《第51200次元》にまで拡張した写真に改竄したのです。

糸崎公朗のオリジナル写真
糸崎公朗のオリジナル写真 《第6次元 自明性領域》
鑑賞構造が無い




彦坂尚嘉《超次元》~《第51200次元》
彦坂尚嘉《超次元》~《第51200次元》
《愛玩》という鑑賞構造がある。

もう一つ、糸崎公朗さんの昆虫写真を、《超次元》~《第51200次元》まで改竄しました。今度はコントラストを余り上げないで達成するために、さまざまな造作を組み合わせてみました。


糸崎公朗のオリジナル
糸崎公朗のオリジナル写真 《第6次元 自明性領域》
鑑賞構造が無い


彦坂尚嘉による改竄糸崎公朗撮影2-1完成
彦坂尚嘉《超次元》~《第51200次元》
《愛玩》という鑑賞構造がある。

両方共に、糸崎公朗さんの昆虫写真は非常に優秀な写真です。
しかしイラスト的な写真なのです。
これを《原-芸術》をもった芸術写真に改変したのが彦坂尚嘉の改竄写真です。

つまり芸術というのは、2重性なのです。
《第6次元 自明性領域》での撮影写真。
それを芸術に改変する作業。

この2重の手間が必要なのが、芸術制作なのであり、
そこには《距離》というものが介在しているのです。
この《距離》の、たぶん一番大きなものが、《第51200次元》からの視線です。


フランシス・ピカビア - 2011.10.30 Sun

SATTAさんから、次のようなご質問をいただいた。

> このBLOGに掲載されているピカビアの絵はイラストではないですか。ネットで検索して出てきた90年初頭のころの絵はいいと思ったんですが。


Francis Picabia - Dancer of French Cancan (La danseuse de french-cancan)

ピカビアのこれら1940年代のキッチュの絵画を、イラストだと思われるお気持ちはよく分かりますが、結論を言えば、違います。

これらの作品を《想像界》の目で見れば《第8次元 信仰領域》のキッチュな絵画に過ぎないのですが、《象徴界》の目で見ると、《超次元》~《第51200次元》ある、しかも《原芸術》性もあって、芸術の概念の全梯子がある、たいへん優れた作品です。



dyn009_original_377_520_pjpeg_2646967_94db3804afae229eeec0f54457a7b364.jpg

1260483228949_f.jpg

picabiabuldog.jpg



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ピカビアというと横尾忠則さんが影響を受けたと言うことから、同じようなものだと考えるようですが、それは全く違います。横尾さんの作品は《第6次元 自明性領域》だけの仕事で、しかもデザイン的エンターテイメントであって、芸術性はまったくありません。

ピカビアは、作家そのものが桁外れにすぐれていて、どんなスタイルで描いても《超次元》~《第51200次元》まである優れた作品を描いています。《第51200次元》というのは、宇宙の外部に出た領域です。視野が、桁外れに大きい人なのです。















固体の美術 - 2011.10.29 Sat

negaDEATH13 さんからコメントをいただきました。

グーグルアースを使った山口さんの風景画、新しい発想で素晴らしいですね。

ただ、何故これが「現代アートではない」のでしょうか?
私の認識では、完全に現代絵画として観ていました。
もう少し詳しく、彦坂さんのご説明を伺いたいです。


sagarmatha01ブログ

一番大きな理由は、作品の様態が《固体》になっているからです。

しかし、普通に社会的に現代アートとされている作家でも、《固体》や絶対零度の人は、何人もいます。

下に挙げるのは、思いつくままに、上げたもので、それ以上の他意はありません。彦坂尚嘉の場合、これらの作家も、厳密な意味では現代アートの作家であるとは思っていないのです。


currin.jpg
アメリカの画家で、カリン


img_01.jpg

やなぎみわ


keiji.jpg
白髪一雄


shigeotoya.jpg
戸谷成雄

彦坂尚嘉の正直な気持ちでは、これらの作家をふくむ多くの固体作家を、現代アートであるとは考えていません。

これらは前ー近代の古い体質の作家であり、作品だと思います。

しかし現実の社会の中では、むしろこれらのアーティストとその作品こそが、現代アートであり、芸術であると認識されています。

つまり《固体》という前近代性をもっている質を、芸術性であるとして、多くの人々が信じているのです。

私は、その人々の意見を否定する気持ちはありません。
いろいろな考え方があって良いと思います。

しかし私の考えでは、これらの作家は前近代性に依拠していて、古いのです。根本において、現代のアートであるとは、思えません。

繰り返しますが、そうは思いますが、それはあくまでも私の考えであって、社会の考えではありません。

芸術に対する思考は、個人思考と、社会通念では、別のものなのです。

そういう私の視点では、山口俊郎さんの作品も《固体》という様態に依拠しているものなのです。







山口俊郎の作品 - 2011.10.29 Sat

山口俊郎さんの新作を見せていただいた。
《超次元》~《第6400次元》あるペインティングになっていて、すばらしかった。
グーグルアースによる風景画というのは、時代的な必然がある。


山口俊郎さんの誠実ながんばりと、描くことの丁寧な積み重ねが生んだ成果である。



sagarmatha01ブログ

彦坂尚嘉責任による言語判定法による
[ 山口俊郎 sagarmatha01]の芸術分析


アヴァンギャルド美術ではない。

世間体アートである。
伝統美術である。

現代アートではない。

《想像界》の眼で《超次元》~《第6400次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元》~《第6400次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《超次元》~《第6400次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現。しかし《サントーム》は無い。
プラズマ/気体/液体/固体/絶対零度の5様態をもつ多層的な表現。

《シリアス・アート》である。《気晴らしアート》では無い。
《ハイアート》である。《ローアート》では無い。
シニフィアンとシニフィエの同時表示。つまりシーニュである表現。
理性脳の表現である。原始脳性が無い。
《透視画面》オプティカル・イリュージョン【A級美術】。

《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》《形骸》《炎上》《崩壊》の全概念梯子が有る。

《原デザイン》《デザイン》・・・の全概念梯子が無い。

《原大衆芸術》《原イラストレーション》《原シンボル》の概念梯子が無い。

《原-装飾》が無い。
《原-工芸》性が有る。

芸術であって、キッチュではない。

作品空間の意識の大きさが《村》である。

《愛玩》《対話》《驚愕》《信仰》《瞑想》の全てがある。

情報量が100である。
クリエイティヴである。


sagarmatha02完成RGBブログ

GEP-norwayブログ

GEP-cholatse-ブログ

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惜しいのは、現代アートになっていないところである。
それと空間が《村》という小いささがある。

しかしこのことを否定的に
考えることは無いだろう。

これはご本人のリアルな生活態度というか、人格の価値観が表れている所だと思う。それを無理に変える必要は無いし、それは出来ないと言うべきだろう。自分を変えることなどできないから、そのまま行けば良いと思う。

それよりも《超次元》~《第6400次元》までに拡張した絵画がえがけていることに対する驚きを、高く評価するべきである。


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New HIKOSAKA 彦坂尚嘉

Author:New HIKOSAKA 彦坂尚嘉
彦坂 尚嘉(ひこさか なおよし、1946年6月26日 - )は、 美術家。立教大学大学院特任教授。日本建築学会会員。日本ラカン協会会員。気体分子ギャラリーを主催。

【著書/出版】『反覆/新興芸術の位相』(74年、田畑書店)、『死に対抗する力』(91年、ギャラリーKURANUKI)、『リノメランコリア』(94年、岡部版画工房)、共著『リベーションの現場』(05年、彰国社)、共著『メディアと精神科医』(05年、批評社)。共著編『皇居美術館空想』(08年9月朝日新聞社)。『彦坂尚嘉のエクリチュール』(08年、三和書籍)、共著『3・11万葉集 復活の塔』(2012年、彩流社)

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